研究会のお知らせ[2012.03.26.]
日本質的心理学会 研究交流委員会研究助成企画
「制度的場面についてのエスノメソドロジー・会話分析研究」
日本質的心理学会研究交流委員会研究助成を受けまして、下記のような研究会を企画しました。質的研究法及びヴィデオデータを分析することに興味関心をお持ちの方は奮ってご参加ください。
記
【日時】平成24年3月26日(月) 11:30-18:00
【会場】新潟青陵大学6号館2階6205講義室兼ゼミ室
【研究会会場の地図】新潟青陵大学ホームページ内の下記リンク先をご参照ください。
http://www.n-seiryo.ac.jp/access/index.html
(西門から入っていただき、真正面奥に見える建物が6号館になります)
【参加費】日本質的心理学会会員及び学生:無料(学生の方は学生証の提示をお願いします)
その他の方:500円
【研究会の目的】「会話分析を使用して制度的場面をどのように研究するか」を検討する。
【研究会の内容】
<研究会第一部>11:30-16:00(途中、ランチタイムを挟む)
Heritage,J.&Clayman,S. 2010. Talk in Action: Interactions, Identities, and Institutions. Wiley Blackwell. を検討する。
Talk in Action: Interactions, Identities, and Institutions (Language in Society)
- 作者: John Heritage,Steven Clayman
- 出版社/メーカー: Wiley-Blackwell
- 発売日: 2010/04/16
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 1回
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本書は第1部:会話分析と社会的制度、第2部:緊急電話サービス場面、第3部:医師‐患者の相互行為、第4部:裁判、陪審員、紛争の解決、第5部:ニュースと政治のコミュニケーションで構成されている。本研究会ではそれぞれの場面で「エスノメソドロジー・会話分析的研究」を行っている日本の研究者を招き、それぞれ担当のパートを紹介しつつ検討する。
<各担当者>
・第1部担当 秋谷直矩 (立教大学他)
・第2部担当 岡田光弘 (国際基督教大学)
・第3部担当 海老田大五朗 (新潟青陵大学)
・第4部担当 北村隆憲 (東海大学)
・第5部担当 酒井信一郎 (共立女子大学)
<研究会第二部>16:15-18:00
ヴィデオデータのデータセッションを行う。
<各担当者>
・「ヴィデオデータの分析について」 担当 南保輔(成城大学)
・データ「医療・福祉場面のデータ」
【注意事項】
・報告者及び提供データなどにつきましてはあくまで予定です。当日急遽変更される場合がございます。あしからずご了承ください。
・研究会当日、レジュメは配付しますが、上記テキストの販売や貸し出しは行いません。各自でご用意ください。ただし、テキストを持っていなくても研究会に参加することは可能です。
・事前申し込みは不要ですが、レジュメを用意する関係上、下記連絡先までご一報いただければ幸いです。
・昼食は13:05-13:45を予定しております。当日学生食堂や学内の生協を利用することは可能ですが、それ以外の店舗が近隣にございません。主催者側で特別な手配もいたしません。昼食をご持参されることを強くお勧めします。
・学内は全面禁煙になっております。ご協力のほどよろしくお願いします。
・当日は、19:00より新潟駅近郊で懇親会を予定しております。奮ってご参加ください。
<本研究会に関する連絡先>
担当:海老田大五朗
〒951-8121
新潟県新潟市中央区水道町1丁目5939番地
新潟青陵大学
e-mail: ebita@n-seiryo.ac.jp
(全角の@を半角の@にご変更ください)
以上
高校柔道の団体戦におけるポイントゲッターの配置について
ある研究会を企画していたら、研究者五名をどういう順番で並べるかという問題が生じた。そしてこの問題を考えていたら、中学・高校の柔道団体戦のことを思い出した。
柔道になじみのない人にとって、柔道は個人戦がいつでもメインかと思われるかもしれないが、中学・高校のクラブ活動レベルの大会では、柔道競技は団体戦がメインである。少なくとも私が所属していた学校はそうだった。とにかく団体戦で良い結果を出すことが至上命令であり、個人はできれば良い成績、負けたら「しょうがない、気にするな」的な感覚であった。
さて、中学・高校の団体戦は基本的に五人制であり、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将と並ぶ。通常の大会は点取り戦(たまに勝ち抜き戦もあるのだがこれはまた別の話)であり、五戦して勝ち数の多いチームが勝ちである。スコアは3−2とか5−0とか2−1(この場合2戦引き分け)である。2−2で並んだときは、それぞれの試合内容を見られ、一本勝ちの多いチームが勝ちとなるし、内容も同じ場合は別途代表戦などが行われる。
中学の団体戦では、基本的に体重順に並べなければならないというルールがある(ここには、まだ発達しきっていない体格の小さな学生が比較的発育の早い大きな学生と対戦しないようにするという、怪我を避けるといった配慮がある)。つまりレギュラー五人の中で最も軽い選手が先鋒であり、最も重い選手が大将となる。したがって、五人の選手は自動的に体重順に並べられることになるので、ポイントゲッターをどこに配置するかという問題は生じない。ちなみに私は中学の団体戦では常に先鋒であった。
しかし、高校以上の柔道の団体戦では、選手の配置は自由に行える。したがって、国士館や東海大相模、桐蔭学園のような、レギュラー全員が個人でも全国大会に出場できるような高いレベルでもない限り、とりわけ私が所属していた「県ベスト4〜8」レベルの学校にとって、そのチームのエースとなるポイントゲッターを先鋒から大将のどこに配置するのかというのは重要な問題であった。
これはもちろん、どのような五人がレギュラーになるのかで大きく変わってくるのだが、最も多いパターンは、そのチームのエースを中堅に配置するパターンであろう。ちなみに柔道にあまりなじみのない人であれば(その名称からして)エースを大将に置くと思うかもしれないが、点取り戦でポイントゲッターを大将に配置する高校はほとんどない。なぜなら五人戦の場合、3勝すれば勝ち、逆にいえば3敗すれば負けになり、残り2戦(副将戦、大将戦)は消化試合になる。ポイントゲッターを大将においたはいいが、大将戦を前にチームの勝敗が決してしまうということはありうる話なのだ。
また、そのチームが抱えているエースというのがどのレベルの強さなのかも重要である。というのも、たいがい他のチームも中堅にはエース級を置くため、他の学校のエースと自分の学校のエースの力比べになる。自分の学校のエースが、相手校のポイントゲッターをしとめることができるくらいの強いレベルであれば、どうどうと中堅に配置して勝負させる。不思議なもので、相手校の一番強い選手をしとめることができれば、その団体戦は負けないものだ。
第二のエースをどこに置くかという問題もある。私のいた高校で多いパターンは、次鋒に配置するパターンであった。場合によっては第一のエースを次鋒におき、第二のエースを副将に置くというパターンもある。このパターンは自分のチームの第一ポイントゲッター、第二のポイントゲッターが、他のチームのエースと比較したとき、絶対に勝てる確信がないときには有効なパターンだ。私が前に所属していた柔道整復師養成校は、全国の柔道整復師養成校が集まる柔道全国大会で(3部だけど)優勝したことがある。このとき、チームを指揮する立場だった私は、チームのエースを次鋒においた。この選手は期待に応えてくれ、4戦4勝、オール一本勝ちで大会MVPにも選ばれている。次に安定感のあった学生を副将におき、彼も4戦して3勝1敗、大会優秀選手賞を受賞した。選手配置が大成功した例である。
団体戦では一般に先鋒戦が重要であるといわれている。勝てばチームに勢いがつくし、負ければなし崩し的にチームも負ける可能性もある。実際、多くのチームは先鋒に軽いけど比較的よく動けて元気のよい学生を配置する傾向にある。しかし、私がいた高校で先鋒に与えられていた役割は「絶対に負けないこと」であった。逆にいえば、「勝たなくてもよい」のである。つまり、「絶対に相手に勢いをつけさせない」ことを重視していたわけだ。これはどういうことかというと、サッカーでいえば「カテナチオ」の発想である。点を取られなければ負けはない。実際、先鋒戦というのは一般には確かに重視されており、先鋒で点をとって勢いをつけようと、エース級の選手を先鋒に配置してくることもよくある。しかし、ここで点をやらなければ相対的に相手の勢いをそぐことになる。相手の勢いをそぐことができれば、その引き分けは引き分け以上の価値を持つわけだ。
では大将はどうか。これは先に述べた通り、大将戦の前に勝負が決していることはよくあるが、接戦で大将戦にもつれる場合もよくある。たとえば1−1で大将戦なんてこともよくある。大将戦を重視するしきたりというのは、実際に柔道界には存在していた。現在はどうかわからないが、大将戦だけはチーム全員が正座して観戦するという慣習もあったし、同点なら大将戦の成績で勝敗を分けるというルールも(ずっと昔には)あったらしい。私の高校で大将に求められていた役割は、「状況に応じた戦いができること」であった。たとえば1−0でチームが勝って大将戦になれば、当然大将戦は引き分けでもチームは勝つ。したがって、先鋒戦と同様に「絶対に負けない戦い」が要請される。たとえば2−2で大将戦に回ってきた場合、勝敗の内容(一本勝ちの数など)や代表戦になったときのシミュレーションをしなければならない。チームが勝っていれば自分は「負けない戦い」、負けていれば、当然「リスクを冒してでも点を取りにいく戦い」が求められる。両校のエース同士の戦いになる代表戦は、その力量の見極めによって大将戦の戦い方が決まる。たとえば2−2の引き分けで大将戦に回ってきて、勝敗内容(一本勝ちの数とか)も同じであれば、自分のチームのエースのほうが相手のチームのエースより上だと思われるなら、大将戦は当然「引き分け」でよいのだ。ちなみに私が高校時代にもっとも多く配置されたのは大将であった。大将は一般に体重の重い学生が置かれることが多い。私は当時軽量級だったにもかかわらず、よく大将に配置された(私の高校には同年代に重量級の選手がいなかったという事情もある)。だが、軽量級の人間にとって重量級の相手と引き分けるのはそれほど難しくない。むしろ私がもっとも苦手だったのは、中量級とか軽重量級といった80キロから90キロくらいの選手であった。したがって、重量級の多い大将というポジションはそれほどやりにくいポジションでもなかった。
もちろん、柔道選手を五人並べるのと、研究者を五人並べるのは全く別次元の話であり、長々と書いては見たものの、このエントリに仕事の息抜き(あるいは仕事からの逃避)以上の意味はないのであったorz
追伸
『柔道部物語』を読みたくなった。
- 作者: 小林まこと
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「ママ、ち○ちんない!」と「タオルとって〜!」
子育ては驚きの連続であり、人間及び人間の営みを研究するものにとって、その驚きは糧となる。子どもとお風呂に入っていて、驚くべき子どもの発話が二つあった。それが表題の二つの発話である。
(1)「ママ、ち○ちんない!」
この発話は子ども(男)が2歳になるかならないかのころ、家族3人でお風呂に入っていたときの話である。「○○(子どもの名前、自分で自分の名前を言っている)、ち○ちん」、「パパ、ち○ちん」、「ママ、ち○ちんない!」と叫んだのである。
これは私にとって驚きの発言であった。何が衝撃かというと、「Xがない」という不在の報告ができたことへの衝撃であった。ひとつ断っておきたいのは、不在の報告ができたからわが子は天才だと言いたいわけではない。2歳になるかならないかの子どもであれば、おそらく誰でもこのような発言が可能あろう。
「Xがない」という不在の報告は、とても興味深い報告である。というのも、その場に「ないもの」はたくさんある。というか、「ないもの」のほうが圧倒的に多い。不在の報告をするためには、「あるべきもの」が想定されていなければならない。私が驚いたのは、この「あるべきもの」を想定する能力に対してである。(参考:「観察可能な不在」についてはSchegloff 1968=2003及び西阪1997:70-72)
もう一つだけ。「ママ、ち○ちんない!」という不在の報告は、真なる報告である。しかし、子どもは真なる報告をしたいわけでもなかっただろう。というのも、くどいようだが不在の報告は、不在のものが大多数であるゆえ、たいがいの不在の報告は真なる報告である。(これについても参考となるのは西阪1996:62-64あたりの議論。ちなみにこの『メソッド/社会学』という本はいろんな意味で興味深い本である。)ないものはいくらでもあるわけで、真なる報告をしようと思えば「リンゴがない」「わんわんがない」「くつがない」というように、いくらでも可能である。単なる私の思いつきであるが、これくらいの月齢の子どもによる不在の報告は、子どもの「驚き」そのものではないかという気がしている。自分にもついていてパパにもついているものが、なぜかママにはないのである。そのことに気付いた子どもはさぞかし驚いたことだろう。
(2)「タオルとって〜!」
二つ目もやはりお風呂での子ども発話である。子どもはこのとき2歳8〜9カ月で、状況はだいたい次のとおりである。
私:しまった!
子ども:(お風呂場のドアを開けて)ママ〜、タオルとって〜!
といった感じである。おおよそこのときの会話はトランスクライブできていると思う。簡単に説明しよう。私が子どもと二人でお風呂に入るとき(っていうか最近は専ら私と子どもの二人でお風呂に入っている)、必ず持ち込むのは子どもの体をぬぐうための小さなハンドタオル2枚である。で、わたしはしばしばこのハンドタオルを忘れる。そのたびに、お風呂場の中から「すみませんが、タオル取ってください」と妻に呼び掛けるといったことをしていた。そんななかでおきた会話の連鎖がこれである。
ここでは単に会話の連鎖が生じただけではなく、次のような行為も生じている。うちの子どもは、私の「しまった!」という発話を聞いて、1)パパは何か忘れたこということを表現したと理解した、2)忘れたものがいつも使っている小さなハンドタオルであることを確認した、3)私に代わってママに「タオルとって〜!」と依頼した、という少なくとも三つの行為をしている。
私は「しまった!」という発話をしただけなのに、この2歳児はこのような行為を連続して、しかも一瞬のうちにしたことに驚いた。ピアジェは自分の子どもの観察を通して研究を深めたらしい。人間及び人間の営みを研究するものにとっては、理解可能な逸話である。
- 作者: 立川敬二,ジェームズ・E.カッツ,マーク・A.オークス,James E. Katz,Mark A. Aakhus,富田英典
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ダイエット中間報告
ダイエットを始めてから68日で12キロの減量に成功した。リバンドなく1キロ体重を落とすのに約5.5日のペースである。三食きっちり食べているし、特にリバンドがないことを考えれば、なかなかよいペースであるように思う。しかし、目標体重まであと6キロなのだが、ここへきて減量ペースが落ちてきているようにも思える。これまでの方法とは別の方法を考えなければ、残り6キロを落とすのは厳しいかもしれない。
したがってここで一度、これまでのダイエットで私がしてきたことを公開し、識者各位に対し、他に試せるダイエット方法がないか教えを請うことにしようと思う。私が試してきた方法を以下に記す。
0.三食について
朝食:手作りのお弁当orおにぎりと野菜ジュース
昼食:コーンフレーク豆乳がけ
夕食:普通に夕食
だいたいこんな感じである。
極力避けているもの→脂っこい肉、パン、卵、バターやチーズなどの乳製品、お菓子、アルコールくらいかな。
サプリメントや特保系の食品はほとんど試していない。たまに「ヘルシアウォーター」を飲むくらいである。
1.とにかく野菜を食べる
これは管理栄養士に指摘されたことを素直に実践しただけである。とにかく野菜を食べる。それも食事の最初の段階で食べる。できれば野菜をボール一杯くらい食べるのがよいと思う。栄養バランスだけを考えるならば、これは野菜ジュースでも代替可能である。しかし、私はやっぱり生野菜を食べることがいいと思う。この段階で野菜を食べれば食べるほど、その後の食事の量が減る。たくさん噛むことで、たいしたカロリーを摂取していなくても、かなり食べた気になる。いわゆる満腹中枢が少しマヒするのではないかと思われる。あと、お通じも劇的によくなる。
2.間食について
間食を全くしていないわけではない。ただし、洋菓子・和菓子の類はほとんど口にしていない。間食のほとんどはゼロカロリー系のゼリーか、果物である。ゼロカロリー系のゼリーはよくみると実際には0カロリーではなかったりするのだが、これは全くの許容範囲であろう。果物とお菓子だとじつは果物の方が糖度は高かったりする場合もあるのだが、ダイエットにとって問題は糖度よりも栄養バランスや消化されやすいかどうかだと思う。
3.自転車通勤・二週間に一度の草野球
できるだけ運動機会を増やしたいのだが、ジムになど通うつもりもないので、この程度。現在、一番目をつけているのは、この運動機会である。できればもう少し増やしたい。
4.体重計
毎日体重計にのる。
実をいえば、ダイエット前から上記0、2、3については部分的に試していたりした。運動量に至っては、太っていたころの方が多かったくらいである。そう考えると、これまでのダイエットに最も効果があったのは、1と4である。特に私が重要だと思っているのは4である。つまり毎日体重計にのること。いずれダイエットをやめるときがくると思うが、これだけは生涯続けようと思っている。
追記
最初にご指導を受けた医師が急逝した。死因が何かはわからなかったのだが、この事実自体がショックであった。まだ若かったはず。合掌。ここまでのダイエットの成果を考えれば、彼の指導は素晴らしかったように思う。彼の著作をいくつか紹介しておく。
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私はいかにしてエスノメソドロジストとなり続けたか
高校生のころは、ジャーナリストになりたいと思っていた。
そのため、大学はマスメディア系を学ぶことができるところを探した。(今にして思えば、ジャーナリストになるためには、必ずしもマスメディアを学ぶ必要はないのだが。)私が入学し、卒業した大学では、確かにマスメディアを学ぶことができた。私の出身学科は、実質的には社会心理学科と言ってもいいのだと思う。実際、私の指導教員も社会心理学科の出自であるし、他の教員も社会心理学系の実績が豊富なかたがたである。ご存知の方も多いかと思うが、基本的に心理学と名のつく学問は、統計学をベースにした研究が主である。心理学は物理学に代表される法則科学を基にしており、しかるべき「仮説」があり、実験や質問紙調査によってデータを収集、コーディングし、統計的検定によってその仮説が支持されるか棄却されるかを検証する。心理学部を自然科学部から独立させようとした大学に対し、分離反対運動を展開し、中止させたことを誇らしげに語っていたある心理学者の自伝(残念なことに失念した)を読んだことがある。彼らにとっては、データが一般化可能な信頼性のあるものかどうかが重大事であり、一般化可能された心理モデルは未来を予測することができる(らしい)。しかし、どうにもこうにも…。佐伯と松原の「心理データは「従属変数」を「独立変数」の加法的結合で表す統計的モデルで表現し、統計的検定にかけて、その適合度を「検証」するという、「関数主義」だけが、何十年も前から今日に至るまで変わることなく延々とつづいている」(2000:9)という指摘は、私の当時の実感をうまく表わしていると思う。
大学の授業がつまらなくなり、日本放送作家協会が主宰するフリーライタースクールにも通ったりしてみた。半年で八万円と値段も手ごろで、アルバイト代から何とか捻出できた額だった。ここでは、隆慶一郎の弟子で漫画『花の慶次』の企画にも携わった麻生先生などから直接ご指導いただいたり、貴重な経験をさせてもらったのだが、ここではどちらかというとフィクション作家の養成に力を入れており、当然だがアカデミックさは欠けていたように思う。
そんななか、私の師匠が私の出身校にいたのは幸いであった。実は、学部の2年生くらいまで、私は後に師となるM先生を避けていた。あまりに学生の間で評判が悪かったからだ。その評判の悪さは指導の厳しさに帰属する。課題は多い、コメントは辛い、授業で使用される用語が難しくてわけがわからないなどなど。私にとって、当時のM先生についての認識とは、インタビュー法(この授業は2年生必修だったので履修せざるを得なかった)を熱心に教えてくれる先生というくらいでしかなかった。ちなみに、彼の授業の課題で何でもいいから人の趣味についてのインタビューをしてくるというものがあり、私はドラクエをやるのが趣味だという人(現在の私の妻である)にインタビューし、RPGというゲームがどのようなゲームでいかに面白いか、ドラクエがいかに楽しいかをとにかく語ってもらい、それをまとめた。この課題について、実際の出来がどうだったかどうかはよくわからないが、とにかく文句なしの高評価をいただいたことは覚えている。今にして思えば、「役割を演じる」というシンボリック相互作用論を連想させるようなゲームの趣旨と、そのようなものが世の中に存在しているということを伝えることができたこと、その面白さを引き出すことに成功したことなどが、彼の琴線に触れたのだろう。
さて、どうしたことか、学部3年になると、私は希望もしていないのにM先生の演習クラスに配属された。そこでしょうがなくM先生の演習クラスに参加していたのだが、彼の言っていることは、他の教員に比べ、とてもまともな気がした。M先生自身も社会心理学が出自なのに、ことあるごとに質問紙調査や心理学実験を批判していた。後に分かることだが、彼のお気に入りはグールドーの『人間の測りまちがい』である。そこであるときオフィスアワーを利用して、彼の研究室を訪ね、話をしてみた。自分も質問紙調査には興味がなく、かといってセンセーショナルな記事しか書かないマスメディアにも興味がなく(このころからジャーナリストへの関心が薄らいでいく)、もっと日常的な人びとの生活について勉強していきたいと。するとM先生から薦められたのがGoffman,E.であった。
このころ、私はどのような本を読んでいたかというと、実は現象学についての本を趣味として読みあさっていた。なぜ現象学かは今にして思えばよくわからないのだが、村上春樹(当時大ファン)についての評論を読んだのがきっかけだったと思う。その評論家の現象学を使った村上春樹読解が面白く、よくわからないなりに現象学を勉強した。また、現象学は「ジャーナリストになりたい」と思っていた当時の自分の関心にもあっていたように思う。「自分の経験したことをいかにして言語化していくか」ということに、もっともうまく回答してくれそうな学問が現象学だったように思えた。
さて、学部4年への進級をひかえたころ、「今のままではどこへいっても通用しない」と思うようになり、大学院進学を決意した。M先生に相談したところ、では大学院の授業を聴講しなさいとの指示が出たので、大学院のゼミに出席してみた。そこで輪読されていたのがGoffman,E.の『Forms of Talk』である。Goffman,E.といえば演技論ということで、多少はGoffman,E.について理解しているつもりだったが、『Forms of Talk』は全くわからなかった。ちなみに、このゼミで囁かれていた噂が、「会話分析はもっと難しい」というものだった。私の中で、このとき「こんなに難しいものよりも難しいのだったら、会話分析を勉強するのはしばらく先」という態度が固まったように思う。ただ、幸か不幸か、読書会で同時並行的に読んでいたMiles & Hubermanの『Qualitative Data Analysis: An Expanded Sourcebook』は普通に読めた。大学院に進学しても、なんとかなるかと思ってしまったわけだ。
大学院1年のときから修論は感情を扱うと決めていた。なぜ感情かは、卒論で一応扱っていたからだ。当時は「キレる」という現象に興味があった。ここで出会うのがホックシールドの『管理される心』である。もっとも、翻訳が出たのは原文で読み終わったあとでだが…。私の関心は、まさに「どのようにして人は感情というものを管理するか」であり、ホックシールドのこの本は何度も読み返した本である。「感情を社会学的に扱う」といった志向も説得力があると感じた。フィールドは看護を選択した。看護師の仕事こそが感情労働そのものだと思えたからだ。スミスの翻訳が出たのが2000年で、武井さんの本が出たのが2001年だったが、まさにその時期に、私は10人の看護師さんとインタビューをし、看護助手として10カ月間、ある病院で働かせていただいた。いわゆる参与観察も行ったのである。また、今ほど盛んではなかったと思うが、いわゆる脳科学における「感情」の扱われ方についても一からお勉強した。ろくに生理学などの基礎もない人間のお勉強なので、せいぜい脳科学者が一般読者に向けたようなものを読んだにすぎないが、それでも感情を扱うときに、脳科学的なものも見ておきたいと思ったのだろう。最終的には、ホックシールドの感情労働の話やゴフマンの当惑論のアイデア、インタビュー調査や参与観察から得られた知見、脳科学における感情についての言説を突き合わせることで、何か面白いことが言えるのではないかと思った。しかし、それなりに苦労して書いたにもかかわらず、できあがったものは散々であった。うまくいかなった理由を挙げればきりがないのだが、このころの私は論文の書き方自体がよく分かっていなかったのだろう。今でもわかっているかどうかは怪しいが…。いつかは同じネタでこの修論を供養したいとは思っているのだが、しばらく先の話になりそうである。
修論を書き終えて、率直な感想は二つであった。一つは、人びとの経験をインタビューによって引き出すという方法に自分が限界を感じたことであり、もう一つは録画などを行わない参与観察によって人びとの経験を描きだすという方法に自分が限界を感じたことである。誤解してほしくないのは、それぞれの方法論に限界を感じたのではなく、これらの方法を使いこなせない自分の能力に限界を感じたのである。そんな私に博論を書く気力などあろうはずがない。D1のときは、ろくに調査もせず、修論を見直そうともせず、自動車免許などをとりにいったり、塾講師の仕事にいそしんだりしていた。
ただ、本だけは一応読んでいた。このときに出会うのがGoodwin,C.(1981)やHeath,C.& Nicholls,K.(1986)、Heath,C.& Luff,P.(2000)である。とりわけGoodwin,C.のD論には感動した。自分もこういうD論を書きたいと思った。医療というフィールドにビデオカメラを持ち込んで、このような研究ができれば面白い研究ができるかもしれないと思ったのである。しかしここでの難点は二つ。一つはどのようにしてフィールドへアクセスして良いかわからないということだった。修論で病院のフィールドワークをしたとき、ボランティアとして受け入れが可能かどうか、駄目もとで10通ほど病院へ手紙を出した。このときは、幸運にもある病院で受け入れていただいた。しかし、今回はビデオカメラである。これは個人的なコネクションがなければ相当難しいと思われた。もう一つは、仮に映像データを収集できたとしても、それをどのように分析して良いかがわからなかった。この時点である本を使って一度エスノメソドロジーを勉強するのだが、正直言ってさっぱりわからなかった。2003年ころの話である。
この時点で私は就職を決意する。どう逆立ちしてもD論など書けそうになかったし、20代のうちに就職しないと、いわゆる一般企業には就職できない気がしたからだ。シンクタンク、調査会社、専門学校、学習塾などを片っぱしから受験した。幸いいくつかの好意的な反応をいただき、その中からある専門学校に就職した。この専門学校は、ある福祉系大学の系列の専門学校で、福祉、医療、保育の専門職者を養成する学校である。もっとも、組織自体はかなり問題含みであり、選考過程でそれは勘付いた(そして結果的に私の予感は的中する)のだが…。ただ、そうした悪い予感をさし引いても、自分にとってはかなり好条件のように思えた。頑張りようによっては大学へ登用されるかもしれない、事務職兼任だが授業も持たせてもらえそう(教歴になる)、フィールドが近いのでいずれは調査協力を要請できるかもしれない、経済的には安定する、などなど。実際に働きだしてみると、給与は働き始めてから4年くらいはそこそこ良かった。しかし、給与が良かったのは、基本給がよかったわけではなく、残業代と休日出勤代がたっぷり出たためである。もちろん、研究どころではない。授業に関係しそうな社会福祉関係の勉強をするのが、ぎりぎりの線である。それでも、そのような勉強ができるのはまだましで、そのほとんどが事務仕事に忙殺された。ちなみにこのころ結婚する。
就職4年目で転機が訪れる。直属の上司が退職したのである。あることがきっかけで当時のトップの逆鱗に触れたためである。これにより、この上司の仕事だったカリキュラム編成と時間割の組み立てを、私が行うことになった。ここで私は、大幅にカリキュラムを変更し、できるだけ多く私が授業を担当できるように時間割を組み替えた。さらには、優秀な事務仕事をできるスタッフも増え、私の仕事も事務職9:教職1の割合が、事務職3:教職7くらいになった。これで少しだけではあるが、勉強する時間が確保できた。
実は、このとき、改めて勉強しようと思った一人がブルデューである。といっても、ブルデューについては、大学院の先輩が勉強していて、私はそれにお付き合いして勉強していた程度である。ただ、ブルデュー理論のもつ説得力にはそれなりに関心があったし、なにより量的調査と質的調査をもっとも上手に使いこなしているのもブルデューな気がした。しかし、私は早々にブルデューについて勉強することをあきらめる。一つは情けない話だが語学的理由による。ドイツ語であれば、頑張って勉強しなおして読もうという気にもなるのだが、フランス語はお手上げであった。もう一つは、ブルデューと直接関係するわけではないが、いわゆる量的調査と質的調査(とりあえずGTAをイメージしてます)そのものについてである。量的調査は心理学を勉強したころのアレルギーがあった。質的調査についてだが、修論で経験した苦い思い出がある。それに仮説検定型の研究にせよ、仮説構築型の研究にせよ、人間の行動をモデルによって説明すること、人間の行動を説明するためのモデルを作ることに、若干の抵抗があった。これについては未だに抵抗がある。別な言い方をすれば、実証主義をどう考えるかという問題に行きつくのかと思う。正直に言えば、実証主義について、修論を書き上げるまで疑ったことはなかった。研究することは、仮説や理論などをデータによって検証したり実証することに他ならないと思っていた。しかし、修論を書いたあたりから実証主義についての私の考え方が揺らぐことになる。
それはさておき、この時点で研究テーマにしたのが社会福祉士倫理綱領である。これまで自分の授業などで、社会福祉士倫理綱領を扱うことが多く、それなりに思うところもあった。そもそも、卒論の「キレる」にしても、修論のときの感情労働にしてもそうなのだが、私の関心というのは、人びとの行動規範のようなものに収斂されなくもない。ソーシャルワーク職能団体の行動規範について考えてみるもの悪くないような気がした。そこで、ソーシャルワーク領域における倫理綱領の日米比較などを行い、倫理綱領に期待される国家間の違いなどをまとめ、学会誌(紀要みたいなものだが)に投稿したりした。
しかし、こういったものを勉強し始めて気付くことがあった。日本にしても、アメリカにしても、いかなる倫理綱領を作成したところで、対人援助専門職者の倫理問題はなくならない。虐待を禁止したところで、虐待問題は生じる、などなど。よくよく考えてみれば、法律にしたってそうである。窃盗をしてはいけないという法律を作ったところで窃盗はなくならない。では窃盗犯がそのような法律を知らないかといえば当然知っている。そのような窃盗犯は十分に規範が内面化されていなかったと言ってしまうと、「規範が内面化されているかどうか」ということは、その人の行動によって説明されることになる。つまり、人間の行為や行動を、規範の内面化によって説明することには限界があるということに気付いたのであった。
さて、どうしたものか。
ここで戻るべき場所は、Goodwin,C.のD論な気がした。自分はそもそもああいう論文が書きたかったのではなかったか。幸い手元には、ある柔道整復師の先生が問診場面の見本を見せるという趣旨で学生相手に問診を行い、それを撮影したビデオがあった。実際に、これについては、簡単にまとめたものをあるところで発表もしている。もう一度あの論文を読み直し、そしてあのビデオをもう一度見直し、分析しなおしてみよう。そう思い立ったのが、2008年ころの話である。
この時点で、Goodwin,C.が依拠していると思われるエスノメソドロジーを、もう一度勉強しなおしてみようと思うようになった。ここで手に取ったのが、西阪先生の『相互行為分析という視点』と、当時発売されたばかりの『ワードマップ エスノメソドロジー』である。前者は、どのようにビデオ映像をすべきかという、実際の分析方法が知りたくて手に取った。後者は、そうした分析手法を裏付けるような理論枠組み(後にエスノメソドロジーを理論枠組みと呼ぶのは適切でないとわかることになるが)を知りたくて読んだ。(ちなみに前者は、大学院生のころに一度図書館で読んだのだが、正直よくわからなくて本棚に戻した。)この時点で手に取ったのが、この2冊だったのは幸いだったように思う。今でもエスノメソドロジーを学ぼうと思っている人に薦めるのはこの2冊である。あとは、おそらく他のエスノメソドロジストと同じような足跡をたどっているのだと思う。ガーフィンケルを読み、サックスを読み、シェグロフを読み、クールターを読み、メイナードを読み、ヘリテッジを読み…。
このあたりで、接骨院でのフィールドワークを行い始める。とにかくデータが欲しい。できればビデオデータが欲しい。使えるコネクションはすべて使い、調査協力いただける2つの接骨院と巡り合えた。フィールドワーカーにとって、これほど幸いなことはない。この2つの接骨院の院長には、感謝してもしきれないほどである。実を言うと、当初は接骨院ではなく、病院でのフィールドワークをしたかった。しかし、あることに気付く。私が柔道の練習で、いわゆる突き指をしたときのことである。私の当時の職場には、常時柔道整復師が4,5人いたので、ある先生に施術をお願いした。その先生は私の指に包帯を巻いてくれた。いわゆる固定による保存療法である。そのとき、私はその先生から「指を曲げてください」と言われたので曲げた。巻いている途中でも、「もう少しこの角度で曲げてください」といった指示を受け、微妙に動かしながら包帯を巻かれていった。このとき、「柔道整復師の施術は相互行為によって達成されている」ことを実感した。しかも柔道整復師の施術はこうした外傷に限定されるため、たとえば内科医などの仕事よりも、観察可能な施術がなされるのではないか。それに柔道整復師についての研究はあまり聞いたことがない。
こうしてエスノメソドロジー絶賛勉強中&フィールドワークの最中に、奈良でエスノメソドロジーについてのシンポジウムが開かれ、そこで『ワードマップ エスノメソドロジー』の著者たちと接点ができた。このとき、『ワードマップ エスノメソドロジー』の著者の一人から、「柔道整復師の研究はだれもやっていないから、EMやりたい放題ですね」と言われた。そうか、そういうものか。奈良での懇親会では一人で興奮しており、その日の夜は興奮のあまり眠れなかったほどである。また、独学では修得困難と思われる会話分析について、日本を代表する会話分析者たちから直接指導をいただける機会(しかも無料)にも恵まれた。これについては先生方に感謝してもしきれない。
書きたいことはかなり省略したが、おおよそ自分がエスノメソドロジーにたどりついた足跡は追えているように思う。エスノメソドロジーという研究プログラムのおもしろさについては、自分の研究の中で示せれば良いと思う。
<参考文献>
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倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』を読んだ!
1.序
平成23年1月9日、都内某所にて、新年会と称するブルデュー研究会が行われた。私は、次のような関心により参加させていただいた。
「接骨院において、柔道整復師が患者に対し、セルフストレッチングを教える場面を撮影した。こうした場面を相互行為分析と呼ばれる手法で分析したい。問題はこうした手法がブルデュー屋さんから叩かれることが多いことだ。もし、ブルデュー社会学がエスノメソドロジー研究の仮想敵となるならば(といってもEMが敵視しているのではなく、ブルデューがEMを敵視しているわけだが)、まずはとことんブルデュー社会学を勉強しよう。そうしたうえで、ブルデュー批判論文が書けるかもしれない。もしかするとブルデューは敵ではなく味方かもしれないし。(そんなわけないか…)」
そこで、思いついたのが、倉島哲著の『身体技法と社会学的認識』を徹底的に検討することであった。この本はブルデューにもエスノメソドロジー研究にも触れており、しかもフィールドワークもしっかりやっている。フィールドも中国拳法のS流ということで、詳しくはわからないけど、相手を投げ飛ばしたりするから、自分の得意な柔道と競技の特性が近そうだ。ふむふむ。ということで、この本を紹介するから研究会に交ぜて欲しいとの旨を主催者に申し伝えたところ、参加が許された。主催者のcontractioさんには心より感謝申し上げたい。
もっとも、結論から言えば、この研究会への参加動機となった、上記論文の構想自体は諸事情により棄却される。そもそももし仮に、エスノメソドロジー研究にとってブルデューが敵であるならば、同様におおよそある種の理論やモデルを使って人間の行為を説明しようとする全ての社会学派は敵になる。そのように四方八方を敵視することは、「労多くして功少なし」であるし、私の本意でもない。「エスノメソドロジーだから駄目」とか、「ブルデュー使っているから良い」とか、「ルーマン使っているから格式が高い」などというのは、全くナンセンスな話で、研究者なら論文そのものの中身で勝負すべきんだよね。たぶん。
では、今回の研究会参加が私にとって全く無意味だったかというと、もちろんそんなことはない。たくさんの人たちの様々な角度からブルデュー社会学を検討することは、私にとってたいへん勉強になった。とりわけ、統計社会学、数理社会学の側からブルデュー社会学を検討するということをしたことがなかった私にとっては、学ぶことが多いものだった。私の関心からいうと、上記のデータについてというよりも、自らの専門競技というか、25年以上の付き合いのある「柔道」を社会学的に分析してみたいという意欲が、今回の発表準備を通じて沸々とわいてきた。もっとも、実際にこうした研究に着手するのは2,3年後にはなりそうだけど。
そんなわけで、倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』の紹介(というか批判的検討)である。研究会で配布したレジュメは、ほとんどが引用文であったが、ブログにアップするのに、本の引用文ばかりというのは気が引けるので、引用文は最小限に抑えた。もし本文を読んで、この本に興味を持たれた方は、是非この本をご購入下さい。もしくは図書館で借りましょう。賛否はあろうかと思うが、身体技法というものについて、たくさんのフィールドワークを行い、社会学的に検討したという意味では、一読の価値はあろうかと思う。スポーツ社会学会において、相互行為的研究をしていこうと思うならば、必読とも言えるでしょう。
2.倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』の紹介
2−1.『身体技法と社会学的認識』の概略
・「本書の目的は技の有効性を表象することであった。」(p.230)
・「理論編では、主観的視点と客観的視点それぞれの問題点 −前者は技の有効性を行為者の考える有効性に還元してしまい、後者は技の有効性を客観的構造における弁別的価値に還元してしまう− を指摘して、これらの方法にかわるものとして相互身体的視点を提出した。」(p.230)
・「実証編では、S流の参与観察において私がどのような機会に相互身体的判断を行うことができたかを考察することで、この判断の可能性の条件を明らかにした。」(p.230)
2−2.『身体技法と社会学的認識』のポイント抜き書き
<理論編>
第1章 ブルデューにおける実践 p.21-
・ここで主に検討されている論文→Bourdieu,P.(1972=1977)、Bourdieu,P.(1987=1991)
・「技の有効性の表象という本書の関心からすれば、ブルデューの実践理論そしてハビトゥス概念はこれに成功しているとはいえない。むしろ正反対であり、技の有効性をまったく捨象し、完全に恣意的な存在としてこれを表象してしまうのである。」(p.21)
第2章 エスノメソドロジーにおける実践 p.50-
・ここで主に検討されている論文→Garfinkel,H.(2002)、Girton,G.D.(1986)
・「ジャートンは実践の不可知論に陥ってしまった」(p.74)
第3章 わざ言語と実践 p.76-
・ここで主に検討されている論文→生田(1987)、Polanyi,M.(1966=1980)、Lave, J. & Wenger, E. (1991=1993)など
・技の指導のさいに用いられる比喩的言語としての「わざ言語」の重要性
1)実践における言語と身体の相互浸透的な関係を開く
2)指導におけるわざ言語の意義を表象することは、それを介して修得される技の有効性を表象することにつながる
3)わざ言語はフィールドで頻繁に用いられる
例:民俗芸能における「天から舞い降りてくる雪を受ける」→雪の属性が取捨選択される:「白い」、「つめたい」が捨てられ、「軽い」、「壊れやすい」が重視される
・「生田はポラニーの潜入概念を援用した」(p.87)
・だが、これらの共同体には技の習得の程度を表象するための土着の基準は存在しないため、生田とレイヴらはこの基準を外部から読み込まざるをえない。
第4章 身体技法としての実践 p.103-
・ここで主に検討されている論文→Mauss,M.(1936=1976)
・Mauss,M.によれば、身体技法とは、「人間がそれぞれの社会で伝統的な様態でその身体を用いる仕方」(Mauss,M.1936=1976: 121)である。
・「われわれが、他者がある振る舞いにおいて何をしているのか −何を意図しているかではなく、端的に何をしているか− を直観的に判断できるのは、自分自身の振る舞いとそれによって追求される有効性の関係を規定する、なんらかの法則性を身体的に理解しているためだろう。振る舞いには表れない本来の意図を推測したり、振る舞いの背後の感情に配慮したり、振る舞いの意味を解釈したりすることは、このような直観的な判断に対する事後的な補正としてのみ可能であると思われる。…有効性を追求するさいの振る舞いにおいて等しい身体 −これを「相互身体」と呼ぶことにする− が共有されているという前提に立っている点で、このような直観的な判断を、「相互身体的判断(intercorporal judgment)と呼ぶことにし、また、この判断によって他者の行為に有効性を認め、技法を発見しようとする視点を、「相互身体的視点」と呼ぶことにしたい。」(pp.127-28)
・「相互身体的視点は主観的視点からも、客観的視点からも区別される。」(p.129)
<実証編>
第5章 参与観察の開始 p.139-
・武術教室S流の参与観察
第6章 身体の同一性の解体 p.166-
・「線」を取るということ (pp.194-95)
第7章 道具の同一性の解体 p.198-
・「技の有効性を追求するさいに関与するのは、物体としての杖ではなく、身体的ディテールとしての杖なのである。」(p.212)
第8章 構造の同一性の解体 p.213-
・入会案内のパンフレットの見方が変わる。
例)受け身の写真;「危険」→受け身がとれる(つまり危険な写真と見ていない)
結論 p.230-
3.論点・疑問点
・ブルデュー批判論文だが、論文で使用される語彙はブルデュー屋さんの好むものが多い(例→主観/客観、意識/無意識、表象etc.)。倉島は修論でどっぷりとブルデューにつかったようだ。
・エスノメソドロジーの章のあとに「「わざ」ことば」の章を配置しているのが興味深い。
→つまり倉島は「わざ」について語る語彙を探していたんだろう。最初はそれをエスノメソドロジー研究に求めたけど、Girton,G.D.(1986)が…。
→「わざ」を語る語彙を探したいという気持ちはよくわかる。私の研究関心の一つもここにある。以前のブログにも書いたけど、「技がきれる」という表現は、どのような技を指示していることになるのか。ある技には「きれ」があり、ある技には「きれ」がないと言えるならば、そこには何らかの判断基準があるはず。あの井上康生は、技を教えるときの「オノマトペ」を研究しようとしていたらしい。
・「技の有効性を表象すること」という問いそのものを、もう少し精査すべきだったのでは。
→技…たとえば「道具を使いこなすわざ」、「舞踊におけるわざ(型)」、「相手を投げるわざ」を同列で扱い、それぞれの「わざ」の有効性についても同列で扱っている(ように読める)。
→有効性…誰にとっての有効性か。柔道であれば、相手を投げる、固める、絞めるなど、ポイントが取れたら、もしくはポイントが取れなくても相手の様子を見ていれば、「技が有効だった」かどうかわかる。相互身体的判断や相互身体的視点から有効と言われても、相互身体的判断や相互身体的視点が無い人が読んだら(見たら)、その有効性は伝わらないのでは?
→技の有効性…柔道の場合、技が有効かどうかは、技をかける人間の身体や相手の身体に大きく依存する。つまり、相手が自分より大きいか小さいか、自分より重いか軽いか、相手の重心はどちらの足にかかっているかなど、こうした判断(生態学的値など?)によって、どのような技が有効なのかの選択がなされることが多い。(どんな相手がきても一つの技にこだわり続ける柔道家もいることはいるけど)
・相互身体的視点、相互身体的判断→主観と客観の取り違い?(岡田(2008)でも指摘されているポイント)
→相互身体的視点、相互身体的判断というものを定式化した功績は大きいと思う。たしかに技を習うとき、相互身体的視点から学習するということは、経験的にもなされているように思う。しかし、相互身体的判断は、主観と客観を乗り越えたもので、相互身体的視点から技の有効性を表象することが、はたして妥当性のある表象(記述?)となるかどうかは疑問。上でも述べたように、相互身体的判断は相互身体的判断できる人のみができることでは?つまり、相互身体的判断によってなされた表象は、他者には伝わらない、説明可能なものとならないのでは?(主観的表象の域を出ていない?)
→相互身体的視点、相互身体的判断については、別様の分析が有効ではないかと思う。たとえば、オリンピックにおける柔道の解説者にはどのような人間が配置されるか。スポーツ科学や体育学の専門家ではなく、元金メダリストや元銀メダリストが配置されるのは、私たちが「ある現象を語る権利を付与するとき、相互身体的判断が可能な人にその権利を与える」ということをしているのではないか(seen but unnoticed)。「名選手名監督にあらず」と言われてしまうのは、相互身体的判断が可能であっても、技の有効性を伝える実践が可能ではないからではないか。
4.さいごにひとこと
倉島哲(2007)『身体技法と社会学的認識』はつっこみどころ満載だけど、スポーツにおける身体技法を社会学の土俵にのせたという点で、その貢献度は計り知れない。スポーツ社会学におけるブルデューの問いと倉島の問いは全く異なるが、こうした別種の問いがクロスするのかすれ違うのは、今後の検討事項ということで。
<文献>
倉島哲. 2007. 『身体技法と社会学的認識』 世界思想社.
- 作者: 倉島哲
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2007/01
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Bourdieu,P. 1972=1977. Outline of a Theory of Practice. Cambridge University Press. (Nice,R. tr.)
Outline of a Theory of Practice (Cambridge Studies in Social and Cultural Anthropology)
- 作者: Pierre Bourdieu
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
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Bourdieu,P. 1987. Choses dites. Les Editions de Minuit. (石崎晴己訳. 『構造と実践――ブルデュー自身によるブルデュー』 新評論. 1991.)
構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)
- 作者: ピエールブルデュー,石崎晴己
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Bourdieu,P. & Wacquant,L. 1992. An Invitation to Reflexive Sociology. University of Chicago Press. (水島和則訳. 『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る』 藤原書店. 2007.)
リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)
- 作者: ピエール・ブルデュー,ロイック J.D.ヴァカン,水島和則
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Garfinkel, H. 2002. Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism. Rowman & Littlefield.
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Girton, G. D. 1986. Kung Fu: Toward a Proxiological Hermeneutic of the Martial Arts. In Harold Garfinkel ed. Ethnomethodological Studies of Work. Routledge & Kegan Paul. pp.60-91.
Ethnomethodological Studies of Work
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生田久美子. 1987. 『「わざ」から知る』 東京大学出版会.
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生田久美子. 1995. 「「わざから知る」その後」 福島真人編. 『身体の構築学』 ひつじ書房. pp.415-456.
身体の構築学―社会的学習過程としての身体技法 (未発選書 (第2巻))
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石岡丈昇. 2009. 「貧困世界におけるボクシングセンスの社会的構成」 北海道大学大学院教育学研究院紀要 107. pp.71-106.
Lave,J. & Wenger,E. 1991. Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation. Cambridge University Press. (佐伯胖訳. 『状況に埋め込まれた学習 〜正統的周辺参加〜』 産業図書. 1993.)
Mauss,M. 1936. Les techniques du corps. In Sociologie et anthropologie. Presses Universitaires de France. 1950→1968. (有地亨・山口俊夫訳. 「身体技法」『社会学と人類学Ⅱ』 弘文堂. 1976. pp.121-156.)
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村井重樹. 2008. 「「ハビトゥス概念」の行為論的射程」 ソシオロジ.52(3). pp.35-51.
西阪仰. 2008. 『分散する身体』 勁草書房.
- 作者: 西阪仰
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岡田光弘. 2008. 「書評 倉島哲著 『身体技法と社会学的認識』」 ソシオロジ.52(3). pp.203-11.
Polanyi,M. 1966. The Tacit Dimension. Routlege & Kegan Paul. (高橋勇夫訳. 『暗黙知の次元』 筑摩書房. 2003.)
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清水諭. 2010. 「書評 倉島哲著 『身体技法と社会学的認識』」 社会学評論61(2). pp.218-9.
Wacquant,L. 2003. Body & Soul: Notebooks of an Apprentice Boxer. Oxford University Press.
Body & Soul: Notebooks of an Apprentice Boxer
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Wittgenstein,L. 1958. Philosophische Untersuchungen. Werkausgabe Bd. 1. Suhrkamp Verlag. (黒崎宏訳 『『哲学的探究』読解』 産業図書. 1997.)
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「吉田理論の提起したもの――批判的検討」についての予習
平成22年11月6,7日に名古屋大学で開催される日本社会学会では、「吉田理論の提起したもの――批判的検討」というテーマセッションが開催される。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/research/conf83_p.html
とりわけここでは、吉田先生が晩年精力的にとり組んできた「科学論」についての批判的検討がなされるとのこと。吉田先生の「科学論」については、大学院のころから読まなければと思ってはいたものの、科学論自体が専門ではない私にとっては、他に優先されるべき論文があり読むことができなかった。そもそも、吉田先生の論文は「ちょっと読んでみる」という類のものではない。
しかしこの夏、日本社会学会でもテーマセッションが開催されるし、そろそろ読まなければと覚悟を決めて、4本ほど関連論文を読んでみた。吉田先生は30本以上、「科学論」についての論文を書いており、4本読んだだけで要点をまとめるのは不遜な行為なのだが、そこは一つ目をつぶって頂き、思い切って吉田科学論のまとめを公開することにした。以下そのまとめ。ご参考までに。
1.吉田科学論の概観
吉田の「汎法則主義」科学への反論として提示された科学論についての主張は次の通りである。
17世紀の「大文字の科学革命」に発する正統的科学論は、物理学をモデルにして「法則」以外の秩序原理を考えない。この「汎法則主義」に否定的または無関心な一部の人文社会科学も、「秩序原理」なる発想の全否定を含めて、明示的な代替提案をしていない。それに対して「大文字の第二次科学革命」とも「知の情報論的転回」とも名づけられた新科学論は、自然の「秩序原理」が違背不能=改変不能=1種普遍的な物理層の「物理科学法則」にはじまり、改変可能=違背不能=2種普遍的な生物層のゲノムほかの「シグナル記号で構成されたプログラム」をへて、改変可能=違背可能=3種普遍的な人間層の規則ほかの「シンボル記号で構成されたプログラム」へ進化してきたと主張する。(吉田2004:260)
<新科学論の秩序原理>
妥当する層/科学観の特徴 /秩序原理 /例
物理層 /法則科学 /改変不能=違背不能 /重量、電磁力など
生物層 /シグナル性プログラム科学/改変可能=違背不能 /遺伝プログラム、脳神経性プログラム
人間層 /シンボル性プログラム科学/改変可能=違背可能 /1回的プラン、反復的ルールなどの言語的プログラム、計算機プログラムなど
2. 「汎法則主義」科学を退ける
吉田(2006:15)のいう「汎法則主義」とは、物質層から生物層をへて人間層へ至る全自然の「根源的な秩序原理」が、唯一つ決定論的/確率論的、および線形的/非線形的な「法則」である。全自然の秩序原理を「法則」へ一元化した「汎法則主義」は、自然の各階層に他に還元不可能な固有の法則があるとする見解と、各階層の法則は最終的にはすべて物理学法則に還元されるという見解とを含んでいる。
この「汎法則主義」に揺さぶりをかけたのは、吉田によれば「ゲノム」の発見である。「ゲノム」の発見によって、物質層と生物層の多様性のあり方が決定的に異なることが解明された。「ゲノムの発見は生物層の秩序が「普遍かつ不変と措定される法則的秩序」とは異なるタイプの「特殊かつ可変な秩序」(生物多様性)であることを解明し、近代科学の「法則一元論」に一石を投じることになった。物質層の多様性は、物理科学法則が普遍・不変と措定されることから、結局のところ、その境界条件の特殊性と可変性なる1系統の要因にのみ由来する」(2006:16)。ここでいう境界条件の特殊性とは、たとえば地表重力のもとで成立する経験則と宇宙空間の微小重力のもとで成立する経験則との相違が想定されている。他方で、「生物層の多様性は、遺伝情報とその発現を決定する境界条件(細胞内外・生体内外の諸条件)という2系統の要因、なかでも遺伝情報の特殊性と可変性に由来する」(2006:16)。もう少し具体的な言い方をするならば、「例えばニュートン法則とは違って、4種類の塩基の線形配列の差異=パタンという対象内在的な物質的基盤をもつ、すなわち明確な実在論的根拠を有するゲノムは、一方、その細胞内外・生体内外の境界条件とセットをなして生物システムの基本秩序を決定するが、他方、進化の過程で変容してきた。だとすれば、ゲノムは「法則」か」(2003:112)どうかを問われるべきだというのが吉田の主張である。
3. 法則科学とプログラム科学を分かつもの
吉田によれば、プログラム科学と法則科学を分かつ最大の特徴は、自然内在的・対象内在的な記号の関与と非関与である。「ニュートン法則や遺伝的プログラムほかすべての秩序原理は認識主体の側の記号によって記述・表現されるが、その意味での記号の関与ではない。ニュートン法則は力学の術語で記述・表現されるが、ニュートン法則の対象となる運動自体にはいかなる記号も内在せず、それゆえニュートン法則は対象内在的ないかなる記号とも無縁である。だが、ゲノム科学の術語で記述・表現される遺伝的プログラムは、認識対象の側、すなわち細胞自体に内在するDNA記号によって担われている」(2006:20)。ひとつだけ注意しておきたいのは、法則の認識についてである。吉田(2003:136)によれば、(当然のことではあるのだが)法則に関する認識は変化しうるが、法則自体は変化しないと想定ないし措定されている。法則に関する認識の変化を法則自体の変化と混同してはならない。ここでいう「認識主体」とはもちろん人間のことである。
空間と秩序の関係で言えば、「<物質空間の秩序原理>が「法則」であり、<記号情報空間の秩序原理>が「プログラム」」(2004:263)である。
そしておそらく吉田科学論の特徴ともいうべきことは、人間層に妥当するシンボル性プログラム科学までを科学の範疇であると考えていることではないだろうか。吉田によれば、「新科学論は、生物層の「ゲノム」の発見を、物質層の「物理科学法則」から人間層の「慣習的・法律的法則」へと至る「秩序原理の進化」のmissing link(系列完成上欠けているもの)の発見であったと解釈するのである。その結果、人間層の慣習的・法律的秩序や契約的秩序など「約束事ないし取決めとしての秩序」(規約的秩序)は、「秩序をめぐる自然学的構想」の一環として、人類の学問史上初めて「自然の全体像」の中での居場所を得ることになる」(2006:20)。
4. シグナル性プログラムとシンボル性プログラム
吉田(2004:261-262)は、科学の根本範疇の転回を検討するにあたり、旧科学論が自然の唯一の根源的構成要素と考えている「物質とエネルギー」に加えて、「非記号的・記号的な情報」を導入する。吉田は、「非記号情報は「物質の時間的・空間的、定性的・定量的な差異/パタン」と定義され、「物質(とエネルギー)」と同様に全自然の全時空をつうじて妥当する根本範疇である。「差異/パタン」は物質科学の根本範疇「物質(とエネルギー)」に対置・並置される情報科学の根本範疇」(2004:261)と位置づけた。
他方、「記号情報は<記号として機能する差異/パタン>と<意味(指示対象および意味表象)として機能する差異/パタン>との結合」であり、「記号情報は非記号情報と異なり、生物層と人間層に限定された情報現象」(2004:262)である。
さらに吉田によれば、「記号とその指示対象が細胞内外・脳内外・生体内外で物理科学的に結合する「シグナル」(RNA・DNAや感覚・運動神経信号や雷光や雷鳴)と、記号表象(記号表現)と意味表象(記号内容)が、学習の結果、脳内で物理科学的に結合する「シンボル」(2004:262)とに2分される。つまり、シグナルは意味表象をもたない。逆にシンボルは指示対象をもつとはかぎらず、もつとしても意味表象に媒介されてしか指示対象と結合しない。
吉田によれば、プログラムとは、「「非記号的・記号的な情報空間の共時的・通時的なパタンを指定・表示・制御する何らかの進化段階の記号の集合」と定義され、「生物界および人間界に固有の「記号情報空間」の線形的・非線形的な秩序原理」(2003:136)だとされる。
5. エスノメソドロジー研究と新科学論
さて、実のところ、吉田はエスノメソドロジー研究を以下のように評価している。
社会科学の内部に目を転じるなら、「当事者の常識的知識と文脈要因による相互行為の達成」および「達成された相互行為の当事者の常識的知識と文脈要因による説明」という相互浸透する二つの過程の「相互行為場面における同時進行」…というH.ガーフィンケルの創始になるエスノメソドロジーは、「当事者のシンボル性プログラムと境界条件による社会的現実の構築」および「構築された社会的現実の当事者のシンボル性プログラムと境界条件による説明」という相互浸透する二つの情報処理の「構築過程における同時進行」(シンボル性プログラム科学がエスノメソドロジーの卓見に学んだ論点)というシンボル性の1次自己組織論と同型である。なぜなら、常識的知識が包含するプログラム集合は、シンボル性プログラム一般の中核を占めているからである。エスノメソドロジーは、当初アメリカ社会学会で「科学社会学の放棄・解体」と猛反発されたが、じつは「科学の否定」ではなく、反法則主義の「新しい科学の形態」を提唱したのである。まさしく「法則科学からプログラム科学へのラディカルなパラダイム転換」 −自覚的であったとはいえないにせよ− を意味していた。命名はなくても洞察は洞察である。「プログラム」範疇を「常識的知識」という概念で代行させた洞察であった。エスノメソドロジー以外にも現象学的社会学やシンボリック相互作用論など、私がかつて「意味学派」と総称したすべての社会学的思考には、このパラダイム・シフトの潜在的可能性ないし機会が与えられていた。だが、プログラム科学の立論と実質的に等価な理論的・形式的枠組みに到達したのは、エスノメソドロジー唯一である。それほど汎法則主義の、敢えていえば無自覚の一神教的呪縛は強かったのである。ガーフィンケルは人文社会科学における新科学論の実質的な先駆者として、ほとんど唯一の人物である。(吉田2006:28-9)
ここで吉田の指摘する「当事者の常識的知識と文脈要因による相互行為の達成」および「達成された相互行為の当事者の常識的知識と文脈要因による説明」という相互浸透する二つの過程とは、Garfinkel,H.がいうところの相互反映性reflexibilityであろう。また、吉田(2006:28)のいうシンボル性の1次自己組織論とは、人間層でいえば、例えば言語的プログラムによる社会構造を解明することであり、「説明項としてのプログラム」に関する理論である。ここで問題になりそうなのは、「「プログラム」範疇を「常識的知識」という概念で代行させ」ることが可能かどうかである。ここでの「プログラム」範疇とは、生物の設計図となるDNAを拡張させたものであろう。これがはたして「常識的知識」で代行できるものなのか。代行可能なのであれば、いかにしてそれは可能になるのか。このあたりもう一声欲しいところではある。
参考文献
吉田民人. 2003. 「理論的・一般的な「新しい学術体系」試論」 日本学術会議運営審議会附置新しい学術体系委員会編 『新しい学術の体系 −社会のための学術と文理の融合− 』 pp.90-172.
吉田民人. 2004. 「新科学論と存在論的構築主義――「秩序原理の進化」と「生物的・人間的存在の内部モデル」」 『社会学評論』 55-3(219). pp.260-280.
吉田民人. 2006. 「大文字の第二次科学革命」 『情報社会学会誌』 Vol.1(1). pp.15-32.