柔道研究のアイデア

文化社会学やスポーツ社会学を標榜する人たちが柔道について語り出している。

武道の誕生 (歴史文化ライブラリー)

武道の誕生 (歴史文化ライブラリー)

海を渡った柔術と柔道―日本武道のダイナミズム

海を渡った柔術と柔道―日本武道のダイナミズム

身体技法と社会学的認識

身体技法と社会学的認識

井上俊先生の作品は、現在自分のフィールドである柔道整復師について、何か書いてあるかと期待して読んだのだが、残念ながら書いていなかった。

しかし、収穫はあった。

「我が国には幸い皇室という国民が信頼している中心があるのであるから、どこまでも皇室を国民結合の中心として仰いでいくことが精力善用の根本義である」by嘉納(昭和6年)←「こうやって軍国主義イデオロギーとくっついていったのね」と思ったら…
理屈抜きの「忠君愛国」の熱誠に欠くという批判が特に講道館内部から上がった。
嘉納の死去の際に書かれた弟子たちの追悼文は、皇室への尊崇が薄いという嘉納批判への反論に終始したらしい。つまり、当時の人びとにとって、嘉納先生の「皇室を国民結合の中心として仰いでいくことが精力善用の根本義である」という主張は、理屈をつけているという点で反皇室的なのだそうだ。

なんだ、ふつうにおもしろいじゃないか。私はこれを読んで、スポーツ社会学会へ入会した。自分の持っている接骨院のデータも、クラブ活動のケアについてのものがけっこうあるので、「柔道整復師のクラブ活動支援」、「柔道整復師による地域医療」みたいな文脈で何か書けないかと。

ただ、最近は少し違う方向を向いている。思えば私は柔道と出会ってかれこれ20年以上経つ。特別柔道を愛しているわけではないのだけれど、現在の自分があるのは柔道のおかげでもあるわけで、そろそろ恩返しをしなければならないのではないかと思うようになった。つまり、今手持ちの接骨院のデータではなく、柔道そのものについて書きたくなったのだ。

今は大きい論文に取りかかっているので、今すぐというわけにはいかないが、これが終わったら、やってみたいものの一つが、まさにこの柔道研究である。ただ、私は文化的歴史的考察をしたり、分析することはあまり得意ではなく、対面相互行為についての分析を今勉強しているところなので、これを柔道研究に応用できないかと思っている。

たとえば、「技がきれる」という表現をよく柔道家は使うのだが、その内実が語られることはあまりない。技に入るスピードと技のキレというのは、間違いなく無関係ではないのだけれど、イコールではない。というのも、技の入りが遅くても、「技がきれる」という表現は使用可能だ。むしろ技の入りが遅くても、「技がきれる」と使える場面を考えれば、「技がきれる」という表現の特徴がよりはっきりと浮かび上がるようにみえる。特にいま現在、手元のデータで裏付けられるわけではないのだが、おそらく「技がきれる」というときは、技の入るスピードというよりも、技に入ってから相手を宙に浮かすまでのスピードの方を指しているように思う。さらにいえば、技に入るスピードというのは、訓練しやすい。打ち込みのスピードを上げる練習をすればよい。しかし、技に入ってから相手を飛ばすまでのスピードというのは、なかなか身につかない。これは腰の捻りを入れるか、どこを支点にして相手を飛ばすかなどで微妙に異なるものである。

また、技に入るタイミングというものがある。これは明らかに説明可能なものだ。というのも、技を受けるものにとって、これがわかるかわからないかによって、技の効き目が異なってくる。さらにいえば、柔道を見ている周りの人間にも理解可能なものである。周りの者が「なぜそのタイミングでいかない」と口出すことは、日常の稽古の中でよくある現象である。つまり、実際に組み合っていない人間にでさえ、技に入るタイミングというのはわかるのだ。

あの井上康生選手は、修論で技を教えるときのオノマトペを研究したそうである。なんとも鋭い視点である。技をかけるときの表現をどのようにするかによってアンケートをとったらしい。この修論を読んでみたいものだ。

対面相互行為について、どこまで踏み込めるかはわからないが、柔道を語る言葉の整理ができるだけでも、少しは柔道に対して恩返しができるではないかと思う次第である。

1歳8ヶ月のことば

1歳8ヶ月になったばかりのうちの子どもが、言葉を爆発的にしゃべりつつある。
爆発的にしゃべりつつあるというか、正確に言えば発語内容と指示対象がかなり一致しはじめている。
で、子どもが発語する内容にある種の優先順位というか規則性のようなものがあるのではないかと思うようになってきた。

(1)2語と3語の間にはかなりの壁がある。例)「トト」とは言えるが「トトロ」とは言えない。「とり」(鳥)とは言えるが、「ことり」とは言えない。
(2)撥音便、促音便を含む語で、1語目と3語目が同一語であれば、発語可能。例)「クック(靴のこと)」「まんま(ご飯のこと)」
(3)同音の繰り返しであれば、4語でも発語可能。 例)わんわん(犬のこと)
(4)自分の身体に近い語の方が覚えやすい。 例)「て」(手)、「あし」(足)は指示しながら発語可能。でも人形を指しながら「さる」とは言えない。

ちなみに「にゃんにゃん」とは言えない。猫も「わんわん」と呼ぶ。単に犬と猫の区別がついていないだけなのかもしれないけど。犬は何回か直接触っているが、猫は直接触ったことがない。DVDで「かわいい猫ちゃん」を頻繁に視聴しているので、猫の方が知覚頻度は高いと思われる。

なんでこの「1歳8ヶ月のことば」という日記を書いたかというと、実は妻があるところから

「子どもには子ども言葉を教えないほうがよい。犬を『わんわん』と教えると、いずれ『わんわん』は『犬』と教えなおさなければならず、子どもにとっては2語覚えなければならないので子どもの負担になる。だから最初から『いぬ』と教えるべき。」

という教育論を教わってきたから。
たしかにもっともらしく聞こえるが、子どもの発話における身体的構造の発達の問題を全く無視している教育論である。経済合理的にモノを覚えさせるのが子どもにとって良いというのもおかしいような気がするし。
とにかく、この月齢の子どもにとって、発話できない言葉を教えることに意味があるとは、私には思えないのですよ。
おそらく「子ども言葉を教えない」という論理は大人の論理であって、これを一歳児に当てはめるには無理があるんでしょう。
強者の論理が弱者に当てはまらないのと同様に、大人の論理が一歳児に当てはまらない。
それに子どもとのコミュニケーションというものは、その一回一回がそれっきり。その一回一回を大切にすべきであって、よくわからん理論をその貴重な時間に持ち込む必要はないんでしょうね。
「子どもに表現させる」、「子どもに発語させる」ということ自体がおそらく大切なんだと思うんだよね。言葉の選択ではなく、表現や発語といった身体性を伴う実践っていうか、そういうもの。こういったものに接続するような言葉を教えることこそが大切なのかと。