ロマーリオ氏の言う「偽善」とは何を指しているのか?

2014年4月27日のスペインリーグ、ビリャレアルVSバルセロナ戦で、バルセロナのブラジル代表DFダニエウ・アウベス選手が、試合中に「投げ込まれた差別バナナ」をその場で食べてしまうという機転の利いた行動で、人種差別に屈しない強い心をアピールしたことが話題になっている。

参照元「アウベス投げ込まれた差別バナナ食べ勝つ」
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20140429-1292677.html

世界の論調は基本的にダニエウ・アウベスを支持・賞賛する声であふれるなか、これらの支持・賞賛する声に対していちゃもんをつけたのが同じブラジル人で元ブラジル代表のロマーリオ氏である。

ロマーリオ氏は「アウベスがバナナを食べたのは、怒りをスポーツマンらしく表現しただけ。猿は猿にすぎず、人間は人間だ。彼は、自分のことを猿だとは言わないと思う」と話した。さらに同氏は「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない。残念ながらブラジルでも偽善がはびこっているがね」と話した。

参照元ロマーリオ氏が拡散中の「バナナ」に異論」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140501-00000004-nksports-socc

筆者はここでロマーリオ氏に対し、「場の空気を読めない」と非難するつもりもなければ、「成功者にありがちな奢りの表明」と批判するつもりもない。もちろんロマーリオ氏を擁護するつもりもさらさらない(むしろ逆)。翻訳の問題などもあるが、筆者が気になるのはこの文脈で使われている「偽善」という言葉である。

「偽善」という言葉は「善」とは何かを知るものだけが使用できる言葉である。「善」とは何かを知らなければ「偽善」を知ることはできない。そして「善」とは何かという議論の歴史を知っていれば、「偽善」という言葉はおそれ多くて軽々しく使用することなどできないはずだ。ただ、ここで「偽善」という言葉を軽々しく使うロマーリオ氏の無知を端的に指摘したいわけでもない(が、結論としてはそういうことになるかもしれない)。

筆者は以前から、人種差別反対・障害者差別反対的を表明する者に対して使用されるときの「偽善」という言葉の使われ方が気になっているのである。

ロマーリオは「猿は猿で、人間は人間だ」と述べている。この指摘を文脈から取り出せば、この文自体は正しい。しかしながら改めて説明するまでもないが、アウベス選手のバナナを食べるという行為が世界中で支持・賞賛されたのは、アウベス選手が「私たちはみな同じ猿だ」という文意を発したからではなく、上記記事にあるように人種差別した者を軽くあしらい、人種差別の象徴であるバナナを飲み込んでしまったから、端的に言えば人種差別する者を笑いものにしたからである。アウベス選手がどのような意図でバナナを食べたかなどは差し当たりどうでもよい。さらにいえばバナナを投げたものがどのような意図をもって投げたかも差し当たりどうでもよい。これらの行いの連鎖(「バナバを投げる→バナナを食べる」)を、世界の人々は「人種差別的行い→人種差別に屈しない行い」として受けとっているという事実が重要なのだ。

ロマーリオ氏は、この記事を翻訳した人間が正しく訳しているならば、「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない。残念ながらブラジルでも偽善がはびこっているがね」と述べている。より抽象化した言い方をするならば、「人間と猿の同一視は誤りだ。分類をなかったことにする・境界線を消し去ろうとするのは偽善である」ということになろうか。もしこの抽象化した言い方がロマーリオ氏のメッセージを適切に捉えているならば、やはりわからないのは、なぜこのような「分類をなかったことにする・境界線を消し去ろうとする」ことが「偽善」なのかである。それに、どう考えても前者(第一文)から後者(第二文)は導けないだろう。

人種差別に反対する人間のメッセージは基本的に「人種や肌の色などによって人々を分類し、差別するのは誤りだ(あるいは悪だ)」というものであろう。このメッセージに反対するならば、「人種や肌の色などによって人々を分類し、差別するのは正しい(あるいは善だ)」となる。どちらのメッセージを支持するにせよ「偽善」が入る余地はなさそうである。この場合の「偽善」とは何か?「偽善」という言葉を使用したいなら、まずは「善」とは何かを示した上で、どのような根拠をもってどのような意味で「偽」なのかを示して欲しい。

もしかしたら、思いっきり議論を飛躍させて、心身二元論的に「心の中では人種差別しているがとりあえず人種差別反対を表明すること」を「偽善」と呼んで批難しているのだろうか。だとすればこの場合、筆者が「偽善」の使用方法そのものを問題として取り上げることはない(ただし、議論の飛躍と心身二元論的な議論の仕方は問題あると思っている)。もしこの事態を「偽善」と呼ぶ者がいたとしたら、「人種差別は悪であり、表面上は人種差別に反対する(=つまり善を偽る)」という理解をしていることになる。つまり、この事態を「偽善」と呼ぶならば、その人は「人種差別は悪」であり、「人種差別に反対することは善である」という価値判断をしていることになる。筆者は「偽善」という言葉でこのような価値判断を示すこと自体には特に問題を感じない。ただ、筆者は「偽善」という言葉を軽々しく使用する人に不信感を持っていることは否めず、もっとねじ曲がった悪意のようなものを感じているのである。

本題からは逸れるが、一段落ほど追記しなければならない。それは以下のような可能性についてである。「人間と猿の同一視は誤りだ」は、この文章だけ読めば基本的に正しいのだが、ここで世界中の共感を得ているのは「人種や肌の色などによって人々を分類し、差別するのは誤りだ(あるいは悪だ)」というメッセージである。つまり「私たちはみな同じ猿だ」という表現は「私たちはみな同じ種kindsだ」というメッセージの言い換えと解さなければならない。文字通りの意味でとらえてしまったのでは、ここでどのようなメッセージが世界中で共有されているのかを理解していないことになる。「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない」という表明は、この文脈においては「私たちはみな同じ種kindsだと主張するつもりはない」と解されたとしても、ロマーリオ氏は文句が言えないだろう。だが、「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない」という表明を文字通りの意味で理解することはできる。つまり、ロマーリオ氏を擁護できる(しなければならない)可能性があるとするならば、彼自身が人種差別的な扱いをスペイン(奇しくもバルセロナに所属していた)滞在時に受けており、人前でバナナを食べることができないくらい深刻なダメージを受けているかもしれないということだ。そのような者にとって、バナナを食べることを他者、たとえば記者などから強制されたとしたら、苦痛以外の何ものでもないだろう。何か適当なことを言って公衆の面前でバナナを食べることを回避しようとすることは、それなりに合理的で擁護できる振る舞いであるように思える。