EMCA研究者が「がっかり」したときに書いた日記

某所よりある連絡を受けて、たいへん「がっかり」している。世の中には査読者のコメントを受けて、投稿を取り下げる方がいるらしいが、私は査読を受けて投稿を取り下げたことはない。基本的にリジェクトされるときは、査読者との戦いに敗れたときである。したがって、一発リジェクトされたり、投稿を取り下げるわけではなく、けっこうな労力をつぎ込んだうえで成果が上がらないということを経験することになるので、「がっかり」感もひとしおである。ちなみに今回のリジェクトの理由は「査読コメントを受けて適切に修正されており、EMの論文としてはいいのかもしれないが社会学の論文として『面白くない』」とのことであった。この日記はこの「がっかり」感を癒すための日記である。

さて、ふとしたことから「インターナショナルナーシングレビュー」の2008年10月号に掲載されている西阪先生の文章を読んだ。内容的には『女性医療の会話分析』の7章の一部を、看護師さんを読者に想定して書き直したものといってよさそうである。コンパクトになっているぶん論点はさらに明確で、「自分もこれくらい説得的に書ければ掲載されたかもしれないなあ」などと思っていた。この日記の趣旨からは外れるが、西阪先生の論文を読むとき、「怖い」と思うことがある。以前はただただ感動して憧れるばかりであったが、最近は「怖い」のである。ベッカーの『アートワールド』を翻訳していたとき、ブルーマーの『シンボリック相互作用論』の訳者で『アートワールド』の共訳者でもある後藤先生が「ベッカーに直接会いにいきたいんだけど、会うのが怖いんだよね」という主旨のことをおっしゃっていた。いわく、「頭がよすぎて怖い」ということだ。いわゆる「畏怖の念」というものなんだろうけど、この「畏怖の念」というものを最近は西阪先生(と先生のテクスト)に感じている。

それはそうと、私が癒しを感じたのは、西阪先生の文章に対する櫻井利江先生の以下のコメント(さらにいえばこの二人の相互行為)である。長いがそのまま引用する。

従来の看護研究で「会話」のテキストを扱おうとする場合、多くは、その「意味」であったり「解釈」に焦点があてられる。しかし、「会話分析」によって導かれる秩序、そこからの概念化の豊かさはどうだろう(たとえばここでは「防御性」が提示されている)。会話の中で発せられる「ん」や「でも」「別に」などに、これだけの豊かな問題提示を読み込み、その“構造的条件”を我々は見抜けるだろうか。これこそが看護実践を記述するに必要な研究的視点であろうと私は考える。
看護実践における日常的なコミュニケーションの中では、非言語的なものも多く含めて多くのものを受け取り、それに対して返しているはずである。問題は、そのコミュニケーションが「当たり前」になりすぎていると、かえって意識されにくいことにある。まして「記述する」に足る分析からは遠のいていく。ただ「こう思われる」ということを述べればよいという話ではない。その相互行為を成り立たせているものと、その秩序を明示していることを再確認してほしい。我々がインタラクションをうまく記述できないのは、発せられる「言葉」に依拠しすぎているからではないか。うまく言葉として引き出せないと(!)データにならないと思い込みすぎてはいないだろうか。
患者が語り始めるその秩序には、看護師が、わざと視線をはずす、という行為があるかもしれない。患者が、右に若干傾いた姿勢で顔をしかめた瞬間、看護師が即座にアセスメントし、確認するために触診を始めているかもしれない。これらが記述され、看護実践を表現するに足る概念が精錬されてくれば、看護学が目に見える形で伝達され、知の継承に大きく寄与するものと私は信じて疑わない。
(「インターナショナルナーシングレビュー」2008年10月号 pp.48-9)

もし私が書いたものにこのようなコメントが寄せられたら、私はたぶん(文字通り)泣いて喜ぶ。もっとも、私は自分の書いたものによって医療従事者たちを説得する自信がまだなく、「がっかり」してばかりもいられないのである。

テクノソサエティの現在〈3〉女性医療の会話分析 (ソキウス研究叢書)

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シンボリック相互作用論―パースペクティヴと方法 (Keisoコミュニケーション)

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Art Worlds

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