1歳8ヶ月のことば

1歳8ヶ月になったばかりのうちの子どもが、言葉を爆発的にしゃべりつつある。
爆発的にしゃべりつつあるというか、正確に言えば発語内容と指示対象がかなり一致しはじめている。
で、子どもが発語する内容にある種の優先順位というか規則性のようなものがあるのではないかと思うようになってきた。

(1)2語と3語の間にはかなりの壁がある。例)「トト」とは言えるが「トトロ」とは言えない。「とり」(鳥)とは言えるが、「ことり」とは言えない。
(2)撥音便、促音便を含む語で、1語目と3語目が同一語であれば、発語可能。例)「クック(靴のこと)」「まんま(ご飯のこと)」
(3)同音の繰り返しであれば、4語でも発語可能。 例)わんわん(犬のこと)
(4)自分の身体に近い語の方が覚えやすい。 例)「て」(手)、「あし」(足)は指示しながら発語可能。でも人形を指しながら「さる」とは言えない。

ちなみに「にゃんにゃん」とは言えない。猫も「わんわん」と呼ぶ。単に犬と猫の区別がついていないだけなのかもしれないけど。犬は何回か直接触っているが、猫は直接触ったことがない。DVDで「かわいい猫ちゃん」を頻繁に視聴しているので、猫の方が知覚頻度は高いと思われる。

なんでこの「1歳8ヶ月のことば」という日記を書いたかというと、実は妻があるところから

「子どもには子ども言葉を教えないほうがよい。犬を『わんわん』と教えると、いずれ『わんわん』は『犬』と教えなおさなければならず、子どもにとっては2語覚えなければならないので子どもの負担になる。だから最初から『いぬ』と教えるべき。」

という教育論を教わってきたから。
たしかにもっともらしく聞こえるが、子どもの発話における身体的構造の発達の問題を全く無視している教育論である。経済合理的にモノを覚えさせるのが子どもにとって良いというのもおかしいような気がするし。
とにかく、この月齢の子どもにとって、発話できない言葉を教えることに意味があるとは、私には思えないのですよ。
おそらく「子ども言葉を教えない」という論理は大人の論理であって、これを一歳児に当てはめるには無理があるんでしょう。
強者の論理が弱者に当てはまらないのと同様に、大人の論理が一歳児に当てはまらない。
それに子どもとのコミュニケーションというものは、その一回一回がそれっきり。その一回一回を大切にすべきであって、よくわからん理論をその貴重な時間に持ち込む必要はないんでしょうね。
「子どもに表現させる」、「子どもに発語させる」ということ自体がおそらく大切なんだと思うんだよね。言葉の選択ではなく、表現や発語といった身体性を伴う実践っていうか、そういうもの。こういったものに接続するような言葉を教えることこそが大切なのかと。