「吉田理論の提起したもの――批判的検討」についての予習

平成22年11月6,7日に名古屋大学で開催される日本社会学会では、「吉田理論の提起したもの――批判的検討」というテーマセッションが開催される。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/research/conf83_p.html
 とりわけここでは、吉田先生が晩年精力的にとり組んできた「科学論」についての批判的検討がなされるとのこと。吉田先生の「科学論」については、大学院のころから読まなければと思ってはいたものの、科学論自体が専門ではない私にとっては、他に優先されるべき論文があり読むことができなかった。そもそも、吉田先生の論文は「ちょっと読んでみる」という類のものではない。
 しかしこの夏、日本社会学会でもテーマセッションが開催されるし、そろそろ読まなければと覚悟を決めて、4本ほど関連論文を読んでみた。吉田先生は30本以上、「科学論」についての論文を書いており、4本読んだだけで要点をまとめるのは不遜な行為なのだが、そこは一つ目をつぶって頂き、思い切って吉田科学論のまとめを公開することにした。以下そのまとめ。ご参考までに。

1.吉田科学論の概観
吉田の「汎法則主義」科学への反論として提示された科学論についての主張は次の通りである。
17世紀の「大文字の科学革命」に発する正統的科学論は、物理学をモデルにして「法則」以外の秩序原理を考えない。この「汎法則主義」に否定的または無関心な一部の人文社会科学も、「秩序原理」なる発想の全否定を含めて、明示的な代替提案をしていない。それに対して「大文字の第二次科学革命」とも「知の情報論的転回」とも名づけられた新科学論は、自然の「秩序原理」が違背不能=改変不能=1種普遍的な物理層の「物理科学法則」にはじまり、改変可能=違背不能=2種普遍的な生物層のゲノムほかの「シグナル記号で構成されたプログラム」をへて、改変可能=違背可能=3種普遍的な人間層の規則ほかの「シンボル記号で構成されたプログラム」へ進化してきたと主張する。(吉田2004:260)

<新科学論の秩序原理>
妥当する層/科学観の特徴       /秩序原理        /例
物理層  /法則科学          /改変不能=違背不能 /重量、電磁力など
生物層  /シグナル性プログラム科学/改変可能=違背不能 /遺伝プログラム、脳神経性プログラム
人間層  /シンボル性プログラム科学/改変可能=違背可能 /1回的プラン、反復的ルールなどの言語的プログラム、計算機プログラムなど

2. 「汎法則主義」科学を退ける
 吉田(2006:15)のいう「汎法則主義」とは、物質層から生物層をへて人間層へ至る全自然の「根源的な秩序原理」が、唯一つ決定論的/確率論的、および線形的/非線形的な「法則」である。全自然の秩序原理を「法則」へ一元化した「汎法則主義」は、自然の各階層に他に還元不可能な固有の法則があるとする見解と、各階層の法則は最終的にはすべて物理学法則に還元されるという見解とを含んでいる。
 この「汎法則主義」に揺さぶりをかけたのは、吉田によれば「ゲノム」の発見である。「ゲノム」の発見によって、物質層と生物層の多様性のあり方が決定的に異なることが解明された。「ゲノムの発見は生物層の秩序が「普遍かつ不変と措定される法則的秩序」とは異なるタイプの「特殊かつ可変な秩序」(生物多様性)であることを解明し、近代科学の「法則一元論」に一石を投じることになった。物質層の多様性は、物理科学法則が普遍・不変と措定されることから、結局のところ、その境界条件の特殊性と可変性なる1系統の要因にのみ由来する」(2006:16)。ここでいう境界条件の特殊性とは、たとえば地表重力のもとで成立する経験則と宇宙空間の微小重力のもとで成立する経験則との相違が想定されている。他方で、「生物層の多様性は、遺伝情報とその発現を決定する境界条件(細胞内外・生体内外の諸条件)という2系統の要因、なかでも遺伝情報の特殊性と可変性に由来する」(2006:16)。もう少し具体的な言い方をするならば、「例えばニュートン法則とは違って、4種類の塩基の線形配列の差異=パタンという対象内在的な物質的基盤をもつ、すなわち明確な実在論的根拠を有するゲノムは、一方、その細胞内外・生体内外の境界条件とセットをなして生物システムの基本秩序を決定するが、他方、進化の過程で変容してきた。だとすれば、ゲノムは「法則」か」(2003:112)どうかを問われるべきだというのが吉田の主張である。

3. 法則科学とプログラム科学を分かつもの
 吉田によれば、プログラム科学と法則科学を分かつ最大の特徴は、自然内在的・対象内在的な記号の関与と非関与である。「ニュートン法則や遺伝的プログラムほかすべての秩序原理は認識主体の側の記号によって記述・表現されるが、その意味での記号の関与ではない。ニュートン法則は力学の術語で記述・表現されるが、ニュートン法則の対象となる運動自体にはいかなる記号も内在せず、それゆえニュートン法則は対象内在的ないかなる記号とも無縁である。だが、ゲノム科学の術語で記述・表現される遺伝的プログラムは、認識対象の側、すなわち細胞自体に内在するDNA記号によって担われている」(2006:20)。ひとつだけ注意しておきたいのは、法則の認識についてである。吉田(2003:136)によれば、(当然のことではあるのだが)法則に関する認識は変化しうるが、法則自体は変化しないと想定ないし措定されている。法則に関する認識の変化を法則自体の変化と混同してはならない。ここでいう「認識主体」とはもちろん人間のことである。
空間と秩序の関係で言えば、「<物質空間の秩序原理>が「法則」であり、<記号情報空間の秩序原理>が「プログラム」」(2004:263)である。
 そしておそらく吉田科学論の特徴ともいうべきことは、人間層に妥当するシンボル性プログラム科学までを科学の範疇であると考えていることではないだろうか。吉田によれば、「新科学論は、生物層の「ゲノム」の発見を、物質層の「物理科学法則」から人間層の「慣習的・法律的法則」へと至る「秩序原理の進化」のmissing link(系列完成上欠けているもの)の発見であったと解釈するのである。その結果、人間層の慣習的・法律的秩序や契約的秩序など「約束事ないし取決めとしての秩序」(規約的秩序)は、「秩序をめぐる自然学的構想」の一環として、人類の学問史上初めて「自然の全体像」の中での居場所を得ることになる」(2006:20)。

4. シグナル性プログラムとシンボル性プログラム
 吉田(2004:261-262)は、科学の根本範疇の転回を検討するにあたり、旧科学論が自然の唯一の根源的構成要素と考えている「物質とエネルギー」に加えて、「非記号的・記号的な情報」を導入する。吉田は、「非記号情報は「物質の時間的・空間的、定性的・定量的な差異/パタン」と定義され、「物質(とエネルギー)」と同様に全自然の全時空をつうじて妥当する根本範疇である。「差異/パタン」は物質科学の根本範疇「物質(とエネルギー)」に対置・並置される情報科学の根本範疇」(2004:261)と位置づけた。
他方、「記号情報は<記号として機能する差異/パタン>と<意味(指示対象および意味表象)として機能する差異/パタン>との結合」であり、「記号情報は非記号情報と異なり、生物層と人間層に限定された情報現象」(2004:262)である。
さらに吉田によれば、「記号とその指示対象が細胞内外・脳内外・生体内外で物理科学的に結合する「シグナル」(RNA・DNAや感覚・運動神経信号や雷光や雷鳴)と、記号表象(記号表現)と意味表象(記号内容)が、学習の結果、脳内で物理科学的に結合する「シンボル」(2004:262)とに2分される。つまり、シグナルは意味表象をもたない。逆にシンボルは指示対象をもつとはかぎらず、もつとしても意味表象に媒介されてしか指示対象と結合しない。
吉田によれば、プログラムとは、「「非記号的・記号的な情報空間の共時的・通時的なパタンを指定・表示・制御する何らかの進化段階の記号の集合」と定義され、「生物界および人間界に固有の「記号情報空間」の線形的・非線形的な秩序原理」(2003:136)だとされる。

5. エスノメソドロジー研究と新科学論
 さて、実のところ、吉田はエスノメソドロジー研究を以下のように評価している。

社会科学の内部に目を転じるなら、「当事者の常識的知識と文脈要因による相互行為の達成」および「達成された相互行為の当事者の常識的知識と文脈要因による説明」という相互浸透する二つの過程の「相互行為場面における同時進行」…というH.ガーフィンケルの創始になるエスノメソドロジーは、「当事者のシンボル性プログラムと境界条件による社会的現実の構築」および「構築された社会的現実の当事者のシンボル性プログラムと境界条件による説明」という相互浸透する二つの情報処理の「構築過程における同時進行」(シンボル性プログラム科学がエスノメソドロジーの卓見に学んだ論点)というシンボル性の1次自己組織論と同型である。なぜなら、常識的知識が包含するプログラム集合は、シンボル性プログラム一般の中核を占めているからである。エスノメソドロジーは、当初アメリ社会学会で「科学社会学の放棄・解体」と猛反発されたが、じつは「科学の否定」ではなく、反法則主義の「新しい科学の形態」を提唱したのである。まさしく「法則科学からプログラム科学へのラディカルなパラダイム転換」 −自覚的であったとはいえないにせよ− を意味していた。命名はなくても洞察は洞察である。「プログラム」範疇を「常識的知識」という概念で代行させた洞察であった。エスノメソドロジー以外にも現象学的社会学やシンボリック相互作用論など、私がかつて「意味学派」と総称したすべての社会学的思考には、このパラダイム・シフトの潜在的可能性ないし機会が与えられていた。だが、プログラム科学の立論と実質的に等価な理論的・形式的枠組みに到達したのは、エスノメソドロジー唯一である。それほど汎法則主義の、敢えていえば無自覚の一神教的呪縛は強かったのである。ガーフィンケルは人文社会科学における新科学論の実質的な先駆者として、ほとんど唯一の人物である。(吉田2006:28-9)

ここで吉田の指摘する「当事者の常識的知識と文脈要因による相互行為の達成」および「達成された相互行為の当事者の常識的知識と文脈要因による説明」という相互浸透する二つの過程とは、Garfinkel,H.がいうところの相互反映性reflexibilityであろう。また、吉田(2006:28)のいうシンボル性の1次自己組織論とは、人間層でいえば、例えば言語的プログラムによる社会構造を解明することであり、「説明項としてのプログラム」に関する理論である。ここで問題になりそうなのは、「「プログラム」範疇を「常識的知識」という概念で代行させ」ることが可能かどうかである。ここでの「プログラム」範疇とは、生物の設計図となるDNAを拡張させたものであろう。これがはたして「常識的知識」で代行できるものなのか。代行可能なのであれば、いかにしてそれは可能になるのか。このあたりもう一声欲しいところではある。

参考文献
吉田民人. 2003. 「理論的・一般的な「新しい学術体系」試論」 日本学術会議運営審議会附置新しい学術体系委員会編 『新しい学術の体系 −社会のための学術と文理の融合− 』 pp.90-172.
吉田民人. 2004. 「新科学論と存在論構築主義――「秩序原理の進化」と「生物的・人間的存在の内部モデル」」 『社会学評論』 55-3(219). pp.260-280.
吉田民人. 2006. 「大文字の第二次科学革命」 『情報社会学会誌』 Vol.1(1). pp.15-32.