倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』を読んだ!

1.序
 平成23年1月9日、都内某所にて、新年会と称するブルデュー研究会が行われた。私は、次のような関心により参加させていただいた。

接骨院において、柔道整復師が患者に対し、セルフストレッチングを教える場面を撮影した。こうした場面を相互行為分析と呼ばれる手法で分析したい。問題はこうした手法がブルデュー屋さんから叩かれることが多いことだ。もし、ブルデュー社会学エスノメソドロジー研究の仮想敵となるならば(といってもEMが敵視しているのではなく、ブルデューがEMを敵視しているわけだが)、まずはとことんブルデュー社会学を勉強しよう。そうしたうえで、ブルデュー批判論文が書けるかもしれない。もしかするとブルデューは敵ではなく味方かもしれないし。(そんなわけないか…)」

 そこで、思いついたのが、倉島哲著の『身体技法と社会学的認識』を徹底的に検討することであった。この本はブルデューにもエスノメソドロジー研究にも触れており、しかもフィールドワークもしっかりやっている。フィールドも中国拳法のS流ということで、詳しくはわからないけど、相手を投げ飛ばしたりするから、自分の得意な柔道と競技の特性が近そうだ。ふむふむ。ということで、この本を紹介するから研究会に交ぜて欲しいとの旨を主催者に申し伝えたところ、参加が許された。主催者のcontractioさんには心より感謝申し上げたい。
 もっとも、結論から言えば、この研究会への参加動機となった、上記論文の構想自体は諸事情により棄却される。そもそももし仮に、エスノメソドロジー研究にとってブルデューが敵であるならば、同様におおよそある種の理論やモデルを使って人間の行為を説明しようとする全ての社会学派は敵になる。そのように四方八方を敵視することは、「労多くして功少なし」であるし、私の本意でもない。「エスノメソドロジーだから駄目」とか、「ブルデュー使っているから良い」とか、「ルーマン使っているから格式が高い」などというのは、全くナンセンスな話で、研究者なら論文そのものの中身で勝負すべきんだよね。たぶん。
 では、今回の研究会参加が私にとって全く無意味だったかというと、もちろんそんなことはない。たくさんの人たちの様々な角度からブルデュー社会学を検討することは、私にとってたいへん勉強になった。とりわけ、統計社会学、数理社会学の側からブルデュー社会学を検討するということをしたことがなかった私にとっては、学ぶことが多いものだった。私の関心からいうと、上記のデータについてというよりも、自らの専門競技というか、25年以上の付き合いのある「柔道」を社会学的に分析してみたいという意欲が、今回の発表準備を通じて沸々とわいてきた。もっとも、実際にこうした研究に着手するのは2,3年後にはなりそうだけど。
 そんなわけで、倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』の紹介(というか批判的検討)である。研究会で配布したレジュメは、ほとんどが引用文であったが、ブログにアップするのに、本の引用文ばかりというのは気が引けるので、引用文は最小限に抑えた。もし本文を読んで、この本に興味を持たれた方は、是非この本をご購入下さい。もしくは図書館で借りましょう。賛否はあろうかと思うが、身体技法というものについて、たくさんのフィールドワークを行い、社会学的に検討したという意味では、一読の価値はあろうかと思う。スポーツ社会学会において、相互行為的研究をしていこうと思うならば、必読とも言えるでしょう。

2.倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』の紹介
2−1.『身体技法と社会学的認識』の概略
・「本書の目的は技の有効性を表象することであった。」(p.230)
・「理論編では、主観的視点と客観的視点それぞれの問題点 −前者は技の有効性を行為者の考える有効性に還元してしまい、後者は技の有効性を客観的構造における弁別的価値に還元してしまう− を指摘して、これらの方法にかわるものとして相互身体的視点を提出した。」(p.230)
・「実証編では、S流の参与観察において私がどのような機会に相互身体的判断を行うことができたかを考察することで、この判断の可能性の条件を明らかにした。」(p.230)

2−2.『身体技法と社会学的認識』のポイント抜き書き
<理論編>
第1章 ブルデューにおける実践 p.21-
・ここで主に検討されている論文→Bourdieu,P.(1972=1977)、Bourdieu,P.(1987=1991)
・「技の有効性の表象という本書の関心からすれば、ブルデューの実践理論そしてハビトゥス概念はこれに成功しているとはいえない。むしろ正反対であり、技の有効性をまったく捨象し、完全に恣意的な存在としてこれを表象してしまうのである。」(p.21)

第2章 エスノメソドロジーにおける実践 p.50-
・ここで主に検討されている論文→Garfinkel,H.(2002)、Girton,G.D.(1986)
・「ジャートンは実践の不可知論に陥ってしまった」(p.74)

第3章 わざ言語と実践 p.76-
・ここで主に検討されている論文→生田(1987)、Polanyi,M.(1966=1980)、Lave, J. & Wenger, E. (1991=1993)など
・技の指導のさいに用いられる比喩的言語としての「わざ言語」の重要性
1)実践における言語と身体の相互浸透的な関係を開く
2)指導におけるわざ言語の意義を表象することは、それを介して修得される技の有効性を表象することにつながる
3)わざ言語はフィールドで頻繁に用いられる
例:民俗芸能における「天から舞い降りてくる雪を受ける」→雪の属性が取捨選択される:「白い」、「つめたい」が捨てられ、「軽い」、「壊れやすい」が重視される
・「生田はポラニーの潜入概念を援用した」(p.87)
・だが、これらの共同体には技の習得の程度を表象するための土着の基準は存在しないため、生田とレイヴらはこの基準を外部から読み込まざるをえない。

第4章 身体技法としての実践 p.103-
・ここで主に検討されている論文→Mauss,M.(1936=1976)
・Mauss,M.によれば、身体技法とは、「人間がそれぞれの社会で伝統的な様態でその身体を用いる仕方」(Mauss,M.1936=1976: 121)である。
・「われわれが、他者がある振る舞いにおいて何をしているのか −何を意図しているかではなく、端的に何をしているか− を直観的に判断できるのは、自分自身の振る舞いとそれによって追求される有効性の関係を規定する、なんらかの法則性を身体的に理解しているためだろう。振る舞いには表れない本来の意図を推測したり、振る舞いの背後の感情に配慮したり、振る舞いの意味を解釈したりすることは、このような直観的な判断に対する事後的な補正としてのみ可能であると思われる。…有効性を追求するさいの振る舞いにおいて等しい身体 −これを「相互身体」と呼ぶことにする− が共有されているという前提に立っている点で、このような直観的な判断を、「相互身体的判断(intercorporal judgment)と呼ぶことにし、また、この判断によって他者の行為に有効性を認め、技法を発見しようとする視点を、「相互身体的視点」と呼ぶことにしたい。」(pp.127-28)
・「相互身体的視点は主観的視点からも、客観的視点からも区別される。」(p.129)

<実証編>
第5章 参与観察の開始 p.139-
・武術教室S流の参与観察

第6章 身体の同一性の解体 p.166-
・「線」を取るということ (pp.194-95)

第7章 道具の同一性の解体 p.198-
・「技の有効性を追求するさいに関与するのは、物体としての杖ではなく、身体的ディテールとしての杖なのである。」(p.212)

第8章 構造の同一性の解体 p.213-
・入会案内のパンフレットの見方が変わる。
例)受け身の写真;「危険」→受け身がとれる(つまり危険な写真と見ていない)

結論 p.230-

3.論点・疑問点
ブルデュー批判論文だが、論文で使用される語彙はブルデュー屋さんの好むものが多い(例→主観/客観、意識/無意識、表象etc.)。倉島は修論でどっぷりとブルデューにつかったようだ。

エスノメソドロジーの章のあとに「「わざ」ことば」の章を配置しているのが興味深い。
 →つまり倉島は「わざ」について語る語彙を探していたんだろう。最初はそれをエスノメソドロジー研究に求めたけど、Girton,G.D.(1986)が…。
 →「わざ」を語る語彙を探したいという気持ちはよくわかる。私の研究関心の一つもここにある。以前のブログにも書いたけど、「技がきれる」という表現は、どのような技を指示していることになるのか。ある技には「きれ」があり、ある技には「きれ」がないと言えるならば、そこには何らかの判断基準があるはず。あの井上康生は、技を教えるときの「オノマトペ」を研究しようとしていたらしい。

・「技の有効性を表象すること」という問いそのものを、もう少し精査すべきだったのでは。
 →技…たとえば「道具を使いこなすわざ」、「舞踊におけるわざ(型)」、「相手を投げるわざ」を同列で扱い、それぞれの「わざ」の有効性についても同列で扱っている(ように読める)。
 →有効性…誰にとっての有効性か。柔道であれば、相手を投げる、固める、絞めるなど、ポイントが取れたら、もしくはポイントが取れなくても相手の様子を見ていれば、「技が有効だった」かどうかわかる。相互身体的判断や相互身体的視点から有効と言われても、相互身体的判断や相互身体的視点が無い人が読んだら(見たら)、その有効性は伝わらないのでは?
 →技の有効性…柔道の場合、技が有効かどうかは、技をかける人間の身体や相手の身体に大きく依存する。つまり、相手が自分より大きいか小さいか、自分より重いか軽いか、相手の重心はどちらの足にかかっているかなど、こうした判断(生態学的値など?)によって、どのような技が有効なのかの選択がなされることが多い。(どんな相手がきても一つの技にこだわり続ける柔道家もいることはいるけど)

・相互身体的視点、相互身体的判断→主観と客観の取り違い?(岡田(2008)でも指摘されているポイント)
 →相互身体的視点、相互身体的判断というものを定式化した功績は大きいと思う。たしかに技を習うとき、相互身体的視点から学習するということは、経験的にもなされているように思う。しかし、相互身体的判断は、主観と客観を乗り越えたもので、相互身体的視点から技の有効性を表象することが、はたして妥当性のある表象(記述?)となるかどうかは疑問。上でも述べたように、相互身体的判断は相互身体的判断できる人のみができることでは?つまり、相互身体的判断によってなされた表象は、他者には伝わらない、説明可能なものとならないのでは?(主観的表象の域を出ていない?)
 →相互身体的視点、相互身体的判断については、別様の分析が有効ではないかと思う。たとえば、オリンピックにおける柔道の解説者にはどのような人間が配置されるか。スポーツ科学や体育学の専門家ではなく、元金メダリストや元銀メダリストが配置されるのは、私たちが「ある現象を語る権利を付与するとき、相互身体的判断が可能な人にその権利を与える」ということをしているのではないか(seen but unnoticed)。「名選手名監督にあらず」と言われてしまうのは、相互身体的判断が可能であっても、技の有効性を伝える実践が可能ではないからではないか。

4.さいごにひとこと
 倉島哲(2007)『身体技法と社会学的認識』はつっこみどころ満載だけど、スポーツにおける身体技法を社会学の土俵にのせたという点で、その貢献度は計り知れない。スポーツ社会学におけるブルデューの問いと倉島の問いは全く異なるが、こうした別種の問いがクロスするのかすれ違うのは、今後の検討事項ということで。

<文献>
倉島哲. 2007. 『身体技法と社会学的認識』 世界思想社.

身体技法と社会学的認識

身体技法と社会学的認識

Bourdieu,P. 1972=1977. Outline of a Theory of Practice. Cambridge University Press. (Nice,R. tr.)

Outline of a Theory of Practice (Cambridge Studies in Social and Cultural Anthropology)

Outline of a Theory of Practice (Cambridge Studies in Social and Cultural Anthropology)

Bourdieu,P. 1987. Choses dites. Les Editions de Minuit. (石崎晴己訳. 『構造と実践――ブルデュー自身によるブルデュー新評論. 1991.)

構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)

構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)

Bourdieu,P. & Wacquant,L. 1992. An Invitation to Reflexive Sociology. University of Chicago Press. (水島和則訳. 『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー社会学を語る』 藤原書店. 2007.)

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

Garfinkel, H. 2002. Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism. Rowman & Littlefield.

Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism (Legacies of Social Thought)

Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism (Legacies of Social Thought)

Girton, G. D. 1986. Kung Fu: Toward a Proxiological Hermeneutic of the Martial Arts. In Harold Garfinkel ed. Ethnomethodological Studies of Work. Routledge & Kegan Paul. pp.60-91.

Ethnomethodological Studies of Work

Ethnomethodological Studies of Work

生田久美子. 1987. 『「わざ」から知る』 東京大学出版会.

「わざ」から知る (コレクション認知科学)

「わざ」から知る (コレクション認知科学)

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状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

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社会学と人類学〈2〉 (1976年)

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分散する身体―エスノメソドロジー的相互行為分析の展開

分散する身体―エスノメソドロジー的相互行為分析の展開

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暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

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Body & Soul: Notebooks of an Apprentice Boxer

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『哲学的探求』読解

『哲学的探求』読解