「人びとの行為や活動」と「人びとが読み取る意味」を因果関係で説明することの難しさ

 Twitter上である調査結果が流れてきた。それは「ITツールで毎日コミュニケーションする家族の方がその家族とのコミュニケーションの満足度は高い」というものだ。詳しくは下記リンク先を参照していただきたい。

http://news.mynavi.jp/news/2012/02/29/108/index.html

 この調査報告を読むと、「ITツールで毎日コミュニケーションするかどうか」が独立変数として扱われ、「家族とのコミュニケーションに満足しているかどうか」が従属変数とされているようだ。話をわかりやすくするために、独立変数を原因、従属変数を結果と置きかえてみよう。この調査結果では、「ITツールで毎日コミュニケーションする」ことが原因で「家族とのコミュニケーションに満足する」ことが結果、あるいは逆に「ITツールで毎日コミュニケーションしていない」と結果として「家族とのコミュニケーションの満足度は下がる」ということだ。
 これに対し、ある反論が寄せられていた。「因果関係が逆である」というのがその趣旨である。つまり、「家族とのコミュニケーションに満足」しているから「ITツールで毎日コミュニケーションする」、あるいは、「家族とのコミュニケーションの満足度」が低いから「ITツールで毎日コミュニケーションしていない」というものだ。
 これはある意味正しい反論であるように思われる。仲が悪ければ最初から「ITツールで毎日コミュニケーションする」ことなんてしないだろう。しかし、因果関係を逆転させたからといって問題は解決するだろうか。いやいや、「うちの場合、ITツールで毎日コミュニケーションするようになったら、家族間が仲良くなったんですよ」と、再反論だって可能ではないだろうか。
 因果関係を満足させるためには3つの条件が必要である。(詳しくは高根1979;南2010)

1.時間的順序…原因(独立変数)が結果(従属変数)に必ず先行する。
2.共変…原因(独立変数)が変化すれば必ず結果(従属変数)も変化する。
3.変数の統制…原因(独立変数)以外の結果(従属変数)に影響する可能性のある変数が統制されている。

たとえば心理学などで行われる実験は、この3つの条件が満たされるようにセッティングされる。
 さて、上記の調査の場合、多様な方向から批判は可能であろうが、とりわけ因果関係を満足させる1の条件に絞って話を進めよう。私たちは「ITツールで毎日コミュニケーションする」ような家族を、「仲がよい家族だな〜」と感じるのではないだろうか。逆に何年も「家族と連絡をとっていない」といわれると、「…そうですか(複雑な事情がおありなんですね)」という態度を示すことになろう。そしてこのような家族を「仲がよい家族だな〜」とは思わない。あるいは、「仲がよい家族」というものを具体的に想像すると、離れていても「毎日連絡をとる」ような家族であったり、逆に「仲が悪い家族」というと、「何年も連絡をとっていない」ような関係を想像してしまう。(上記の調査の場合、「家族とのコミュニケーションの満足度」という抽象度の高い言い方を(おそらくあえて)しているため、「仲がよい/わるい」という印象に還元してしまうのは問題があるかもしれないが、「家族とのコミュニケーションの満足度」と「仲がよい/わるい」というのはそれなりに結びつきが強そうなので、まあよいとしよう。)
 そうなると、いよいよこの調査における「因果関係の時間的順序」という問題が解決不可能に思われてくる。念のため強調しておくが、原因は結果に対して時間的に必ず先行していなければならない。そうでなければ因果関係が成立しているとはいえない。他方で、上記調査からもわかるように、「ITツールで毎日コミュニケーションする」というある種の行為や活動と、「家族とのコミュニケーションの満足度」のようなある種の意味付与は、相互に反映するものであって、「どちらが原因として先行するのか」を厳密に決定するのは難しい(というかおそらく不可能)。したがって、社会調査というもので「人びとの行為や活動」と「人びとが読み取る意味」を因果関係で説明することは、そうとう難しかろうと思うのだ。
 さて、それではどうしたものか。そもそも、「毎日連絡をとる」ことと「家族関係のよしあし」の関係を考えること自体、意味がないのであろうか。この関係についてもう少しだけ考えてみよう。まず、「毎日連絡をとらない」からといって「家族関係が悪い」とは限らない。私ごとで恐縮だが、私は父母と離れて300キロ弱離れて生活しており、1、2カ月は平気で連絡をとらないこともあるが、だからといって「家族関係が悪い」とは思っていない。むしろ良好ではないかと思っている(父母がどう思っているかはしらない)。他方で気になるのは、このような関係の記述、たとえば「『毎日連絡をとらない』が『家族関係は良好だ』」と記述するときの「が」という、逆説を示す接続助詞である。ここには順接や原因・理由を示す接続助詞を代入しづらい感覚がある。つまり、「毎日連絡をとる」ことと「家族関係がよい」、あるいは「毎日連絡をとらない」ことと「家族関係が悪いこと」には、因果関係というよりもむしろ、ある種の常識的な結びつきがあるのだ。「常識的な結びつきがある」ことは、ある一つの事実では覆らない。たとえば先ほどの私の例のように、「毎日連絡をとらない」が「家族関係は良好」である例(あるいは逆の例)はいくらでも挙げられよう。しかし、だからといって「『毎日連絡をとらない』ので『仲は良い』」という記述への抵抗感は残る。したがって「毎日連絡をとる」ことと「家族関係がよい」ことには常識的な結びつきがあるという主張に対して、「毎日連絡はとらないけど家族の仲はいいですよ」という主張をぶつけることは、一見反論をしているようでその効果はほとんどないのである。あるいは、こうした一見反論をしているようにみえる主張が「一見して反論をしている」ようにみえるとすれば、この常識的な結びつきというものが、一見して因果関係としての結びつきと区別がつかないときか、常識的な結びつきそのものが弱まっているときであろう。

創造の方法学 (講談社現代新書)

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エスノメソドロジーを学ぶ人のために

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